第7回:地方経済の再生 (後編)

2011.12.26

前回の第6回で地方経済の再生(前編)を書きましたが、この後篇を書く前に3月11日の大災害が発生し、その災害の大きさに後篇が書けなくなっていました。
その間、被災地も回って来ましたが、復興などと生易しい言葉では何も言えない、書けない惨状に息をのむばかりでした。
9ヶ月が過ぎて、少しはものごとを論理的に考えられるようになってきたので、本連載を再開することにしました。
休止前と同様、よろしくお願いします。

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来年度の予算案で、復興予算は特別枠として3兆7754億円が付けられた。
この配分をめぐっては早くから被災地首長の霞が関詣で繰り広げられた。
この陳情自体は当然だし、各被災地の長は切実な思いを抱え上京を繰り返したことであろう。
だが、この予算枠の決定や配分についての経過や判断基準が、国民へはもちろん、被災地への説明があったとは聞かない。
また、例の復興会議での討議結果はどう反映されているのか。
さっぱり分からないことだらけである。

一方、被災地の自治体の多くが単独で来年度予算を組めないことは明白である。
だからこその霞が関詣でであろうが、それで得られる復興予算は一過性の時間稼ぎに過ぎない。
一日でも早く、自前の税収を確保し、自前の予算が組めることが求められる。

しかし、この災害による人口の流出、企業活動の減少が被災自治体の再建を非常に困難にさせている。
経済が人口と企業によって支えられていることを実感させられる。
だから、被災地の復興において肝心なことは、この2点につきる。
「農業や漁業だってあるだろう!」との反論もあろう。
それは確かだが、農作物や魚介類をただ収穫するだけの経済が行き詰っていることは周知の事実である。
収穫物を加工し、付加価値を付けるのは企業である。
一次・二次産業の一体化が地方経済復興のカギであるし、さらに三次産業化まで進めば地方の雇用を支えるベースは大きくなるのである。

インフラの復旧が最優先されることは分かるが、元の木阿弥の復旧ではダメだ。
今は、上記で述べた産業構造の質的・量的転換を促進する公共事業に転換する最大のチャンスなのではないか。
大変不謹慎な言い方で申し訳ないが、根こそぎ津波にさらわれた今なのである。
多くの不幸がそこに眠っていることを考えると胸が痛むが、亡くなった方々は決して戻ることはない。
その不幸を乗り越えて次の発展を目指す街づくりを目指すべきなのでないか。
そのための優先順位は、感情ではなく、論理で決めるべきである。
復興会議で「鎮魂の森」づくりなどが提唱されていたが、それは感情論である。
産業・企業の復興優先こそ論理と思う。

被災地以外でも、国政については「何の期待も出来ない」との空気が広がりつつある。
民主党政権の迷走が国民の最後の期待を打ち砕いたのだが、そのことに当の国会議員たちが無頓着である。
国政とは権力闘争だと勘違いしている議員が大勢いる。
これに対する市民の反発が大阪の選挙結果に現れたといえるのに、である。
上京した大阪の橋下市長に群がる各党の幹部を見ていると、単なる票欲しさが見え見えである。
いくらなんでも、国民をばかにし過ぎと思うのだが・・・

今の日本で何を最優先で改革しなければならないかといえば、統治機構につきる。
国でいえば、道州制、二院制、首相公選、法体系などの根幹の改革がそれである。
地方は状況によりさまざまであろうが、大阪都構想などはその代表的な例であろう。
(大阪都構想の是非については、別の章を設けて論じたいと思っているので、ここでは賛否の意見は言わないでおく)
そして、各々の企業においても同じである。
オリンパスや大王製紙は、それが表面に露呈した典型的な例であるが、中小企業の実態はもっとひどい状況にある。
企業統治とは何か、自社の統治機構の再点検、再構成を通じて明示する必要がある。

このような事態に、インフラ整備を担う建設産業界から何の意見も出てこないことが残念である。
復興需要に群がるハイエナのように国民に思われていることが残念である。
事実、東北では、水面下での動きのほうが活発なようである。
それも必要悪だが、その情報が外へ漏れるようでは子供の悪事以下であろう。
手柄を競う、また自慢し合う心に封印が出来ないのであれば、悪事に手を染めないほうがよい。
これは戦略上の鉄則である。