第3回:暗闇の踊り場

2010.01.19

現在の日本経済の状態を一言で言うと、「暗闇の踊り場」であろう。

戦後の日本は、どん底の状態から一心不乱に目の前の階段を駆け上ってきた。
世界が驚く速度で高い極みまで一気に駆け上ってきた。
前を行く欧米諸国を追い越してしまったことにも気付かないくらい一生懸命にである。
そうして到達したのは「暗闇の踊り場」であった。
自分達の頭上に広がることを信じていた青空はなかった。

そこで動きを止めた日本は、真っ暗闇の中で動くこともままならず、立ちすくんでしまった。
政府のみならず、多くの企業の姿がそうである。
中小零細からトヨタ、日立のような大企業に至るまで。
それはそうである。「えい、ままよ」と真っ暗闇の中で足を踏み出せば、奈落の底に落ちるかもしれないのである。
次の階段は、いったいどの方向にあるのかさえ分からない。
止まるしかないのである。

しかし、この踊り場は安全地帯ではない。

次から次へ駆け上ってくる後続の企業が増えるにつれて、その重みに耐えられえず、崩壊を始めている。
やがて完全崩落を来たすであろう。
我慢しきれずに、闇雲に歩き出した者も出てきた。
あるいは、その者には次の階段が見えているのかもしれない。
しかし、彼らがどうなったか、残った者には分からない。

踊り場の者はみな、光を求めている。

次の階段のありかを示してくれる光をである。
しかし、ここで覚悟を決めなければならない。
この踊り場を照らす光は永遠に来ないことをである。
つまり、次の階段は自ら探しに行かなければならないのである。
だが、「闇雲に動け」というのではない。
「暗闇で動けるようになれ」というのである。

ここで問題を出す。
「暗闇を障害とせず動ける人とはどんな人か」。答えは明白である。

「目の不自由な人」である。
(注:非常に問題ある書き方であることはお詫びいたします。
だが、どうしても分かって欲しいので、あえてお許しをお願いします)

目の不自由な方は、光のある中では「視覚障害者」と言われるが、暗闇の中では目が見えるほうが「知覚障害者」となる。
ハンデとは、ある条件の中でのハンデであり、条件が変わればハンデも逆転する良い例と言える。

何を言いたいかはもう分かったであろう。

この暗闇の踊り場を歩いていくには、自社を変身させるのである。
見えない目を捨て、耳を研ぎ澄まし、鼻を効かせるのである。
無用な服は脱ぎ捨て、裸になり、肌の感覚を鋭敏にするのである。
そして、わずかな音、かすかな臭いや空気の流れを感じ取り、歩く方向を決めるのである。
そして、靴を脱ぎ、はだしとなり、足裏の感触のわずかな変化をも捉えて、歩く方向を修正し、次の階段へ一歩一歩近づいていくのである。

上述の比喩のそれぞれが企業要素の何に当たるのか、どんな活動に該当するのかは分かるであろう。
次回は、ちょっと先へ飛んで、次の階段を登って先の世界を論じてみたい。