第5回:建設会社の経営(3)
2007.10.01
◆専門工事会社の経営
ある地方の型枠会社の経営を紹介しよう。
この会社は職人の正社員化を進め、「職人を大切にする会社」を自認してきた。
経営者は「雇用の確保」を経営方針の第一に掲げているくらいである。
このような経営を標榜している専門工事会社は他にもあるし、出来ないまでも「そうしたい」と考えている経営者は多いと思われる。
しかし、職人の正社員化は固定費の増加を招き経営を圧迫する。
前出の経営者がいみじくも語っていた。
「いいかげんな雇用をしている会社の方が強いのは事実だよ」彼の嘆きは理解できる。
だが、職人の正社員化が良い経営で、その反対が悪い経営と単純な断定は出来ない。
雇用の安定は職人の甘さを招く側面がある。
事実、彼もその弊害の中で苦しい経営を強いられているのである。
結局、その苦しさの中で彼がたどり着いた結論は、
「『私に従わないとリストラをする』ということを職人に理解させる」こと、
そして「ついてくる者を認める」という経営に徹することであった。
しかし、この方針は雇用の安定とは相矛盾する要素をはらんでいる。
「雇用に対する、経営者たる自分の意識改革」がまず必要なのである。
「安定=甘さ」の方程式は、職人以上に経営者自身を甘くしているのではないだろうか。
多くの専門工事会社は、この型枠会社とは反対の経営を行っている。
つまり働いた日の日当のみ支払うという従来の「親方-職人」の関係である。
では、多くの専門工事会社の経営が楽かと言えば、なかなかそうはいかない。
確かに固定経費は少なくて済むが、職人の質の低下と生産性の低下により、「さっぱり利益が上がらない」とこぼす経営者が多い。
それはそうである。
日当支払方式には、1日で済む仕事でも2日にしたほうが職人の実入りは良くなるという「悪魔のささやき」が働く欠点がある。
悪魔のささやきを「職人の誇りが許さない」とする職人気質は今や地に落ちてしまっている。
筆者が体験した、護岸工事で使った専門工事会社がまさにこの通りであった。
当初計画した工数504人工が、996人工に膨れ上がってしまった。
工事終了後に追加要素を含めて精算を行なったが、結果として認めた必要工数は560人工であった。
元請としては56人工分しか追加として認められなかったのである。
その専門工事会社は、実に436人工のムダ(損害)を出した。
この元請会社とて、工程遵守が危なくなり、他の手を20~30人工注ぎ込んだので、この工種については損害が出た。
誰も儲からない最低の結果であった。
これは、かなりひどい例であるが、専門工事会社の生産性は年々悪化してきているのではないか。
このままでは、現場から先に建設の世界は崩れそうである。
◆新しい経営の実践者
しかし、少数ではあるが、そういった現実を打破する企業も現れ出している。
次に、ある仮設業者の取組みを紹介する。
この会社の経営者も、ご多分にもれず生産性の悪化に頭を悩ましていた。
彼は、来る日も来る日も一生懸命考えていた。
そして、以下の経営手法に行き着いたのである。
「日当で支払っている限り、職人が生産性を考えようとしないのは当たり前だ。
楽するほうが良いに決まっている。
さりとて正社員化したら、固定費の増大ですぐに資金が回らなくなる。う~ん」
でも、ある日気がついた。
「オレは生産性を上げて利益を稼ぐことを必死に考えている。
なのに、職人は考えていない。
しかし、オレも職人あがりの人間だ。どこが違うんだろう。」
「そうだ、彼らを経営者にしてしまえば良いのだ。
オレのように、イヤでも生産性を上げることを考えるようになる」
そして、「職人を二、三人を抱える親方」だったらなれそうな職人を何人かピックアップし、「独立経営」する話を持ちかけた。
営業は親会社である彼の会社が一手に引き受ける。
そして20数%の経費を引いて独立した職人会社に下請に出す。
仕事を受けた職人会社が何工数で施工するかは自由裁量とする。
そして足場材などの資材は親会社が全て所有し、職人会社に日割り原価で貸し出す。
その他、経理や総務は親会社が面倒を見てあげる。
このような仕組みで、数班を独立会社にした。
これに応じた職人の大半は20代の若者であったと聞く。
彼らは自らの会社の利益を高めるため、必死になって生産性向上に取り組んだ。
その結果は、当然目覚しい成果となって返ってくる。
親会社は安全の指導、品質の向上にも手厚い支援をしてくれる。
20数%の経費は決して高いものではないであろう。
しかし、親会社の経営も驚くほど安定に向った。
それはそうである。
非常に計画性の高い経営が可能になったからである。
その後、独立会社志望の者が増え、今では大半が独立会社になったそうである。
筆者も、こうした独立会社の社長(といっても、みな20代、30代であるが)達に何度も会っているが、目の輝きが今時の若者とは一味違う者ばかりである。
暴走族上がりと自己紹介した者が何人もいるが、その片鱗は茶髪(といっても色は抑え気味)と耳のピアスの穴の跡くらいであった。
◆もう一つの実践例
前出の仮設業者は、数十人規模の職人を抱える専門工事会社の新たな生き方を示していると言える。
次に紹介するのは、職人のみならず恒常的に雇用している社員を一切持たない鉄筋業者の例である。
親が作った鉄筋工事会社を継いだ二代目経営者である彼は、すぐに絶望的な気持ちを持つようになる。
ろくに働きもしない社員たち、来てみなければ人数も分からない施工班の職人たち、うず高く積まれた加工ミスの鉄筋の山、作業場は足の踏み場もないほどの汚れよう、故障して動かない機械もそのまま放置されている。
彼が継いだ会社はこんな会社であった。
彼は、絶望感を抱きながらも行動を起こした。
まず社員たちの首を全員切った。
残ったのは彼と奥さんだけ。
そこから彼の奮闘が始まった。
経理や事務仕事は奥さんが一手に行う。
彼は営業と現場廻り、そして加工場の指揮を取るという3役を一人でこなした。
当然、全ては出来ない。
だから重要でないと思える仕事から切り捨てていった。
それで支障が出たならば、「そうか、この仕事は必要なんだ」と思って復活させれば良い。
そう割り切って仕事の切り貼りを行っていった。
さらにコンピュータの力を最大限に使おうと、事務作業は言うに及ばず、加工機のコンピュータ化なども進めていき、徐々に非常に効率の良い会社になっていった。
究極とも思える二人だけの経営を崩す事もなく二人は頑張った。
最初は眺めているだけだった職人たちも次第に協力的になっていき、自主的に作業効率を考えた段取りを行うまでになっていった。
今でも、社屋はバラック小屋で、二つだけの事務机、小さな打ち合わせ机と幾つかの丸椅子、コピー機といったものしかない。
いや、パソコンだけは4~5台あって、そこだけ社屋とはそぐわない印象を与える。
筆者は、建設業に特化したITシステムの構築と経営コンサルの会社を営む身であるが、新たに考案した施工の仕組みで工事を行なうビジネスも営んでいる。
この小さな社屋で、経営者の熱意のこもった話を聞くうち、「次の案件の鉄筋工事に使ってみたい」、いや「一緒に施工をやりたい」と思うようになってきた。
そんな気持ちを起こさせる会社であることは間違いない。
◆リスクをとる勇気
しかし、これらの成功例を聞いたとしても、このような経営に踏み切れる経営者はまず居ないと思う。
「あまりにもリスクが高い」と尻込みをしてしまうだろう。
それはそうである。
「ヘタしたら会社はメチャクチャになってしまう」と考えて当然である。
とりあえず、今のやり方でも明日のご飯は食べられるから、しばらくはこのままで・・・が当面の結論になるのであろう。
今の経営を大幅に変えるということは常にリスキーである。
絶対に安全な経営改革など期待するほうが間違えているのである。
踏み切るか否かは経営者次第、そして企業が発展するか衰退するかも経営者次第である。
経営者には常にリスクを取る勇気が求められている。
特にこれからの時代、楽な経営などないと思ったほうがよい。
しかし、悲壮感に陥ってはいけない。
リスクを取る恐怖を面白さに変えていくことがポイントである。
◆コンストラクション・マネジメント(CM)をどう見るか
ゼネコンとは違う立場で施主の代行や支援を行うCM(コンストラクション・マネージメント)はサブコンにとって吉なのか凶なのか。
前述の経営者たちの言葉を借りる。
「CMは悪い方法ではないが、コンサルの能力が低いとサブコンにとって敵になるであろう」
「要求される管理や施工技術の程度が分からないのと、責任の所在が良くわからないのがネックだな」
「明確なシステムとして機能するならば意義はあるが、今の同業者を見ている限りでは無理じゃないかな。仕事に対するシビアさが足りないし、契約があいまいな業界だから」
あまり肯定的な意見は出てこなかった。無理もない。
今の日本のCMはコストダウン手法と捉えられているきらいがある。
「30%コストダウン出来る ○○型CM」などと銘打って大々的に宣伝しているCM会社もある。この会社のCMが、「いかに専門工事会社を叩くか」のように見えてしまうのは、穿った見方過ぎるのであろうか。
判断に苦しむところである。
ひところ下火になった感のあるCMだが、この不況のせいか、話題に載ることが増えてきたようである。
だが、施主の関心はコストダウン対策としてであり、CM会社の思惑とはずれている感がある。
単なるコストダウンではない本来のCMが普及するには、多様なリスク管理の仕組みが不可欠である。
それを手法として施主に見せられるCM会社はまだまだ少ない。
CMフィーが上乗せされるだけの結果に終わっては施主を納得させることはできない。
CMは、位置付けそのものが、まだ未確定である。
施主と施工会社の狭間でどんな業務を行い、何を成果とするのか。
はたまた、設計事務所や設計コンサルとの職能分離はどうなるのか、産業としての意義が問われている。
建設に関する既存の法律もCMが成立しにくい原因を作っている。
CMの普及にはどうしても新たな法整備が必要である。
しかし、品確法一色の今の建設行政にその余裕は無いであろう。
品確法が期待はずれに終わり、失望感が広がった時、再び脚光を浴びるかもしれない。
品確法の実務上の担い手こそ、CMかもしれないからである。
<あとがき>
専門工事会社の生きる糧は「生産する技術力」に尽きる。
近未来、建設業界にも情報革命が深く浸透してくるであろう。
それは、生産しないブローカー的な会社やゼネコン的な専門工事会社の淘汰を促すであろう。
「モノ作り」を誇りに思う真の建設技術者集団が求められている。