第18回:名君の発想とは=上杉鷹山

2009.09.06

今回は、「改革」といえば必ず名前があがる「上杉鷹山(ようざん)」を取り上げよう。
実は、上杉鷹山を取り上げるのは気が進まなかったのじゃ。
あまりにも有名で、文献、書籍も山のようにあり、いまさら、わしごときの出る幕は無いからな。
経済界にも彼のファン(?)は数多くいるので、ヘタなことも書けないし・・
要するに、語り尽くされた人物なのじゃ。

それでも、敢えて取り上げたのは、
「脳内道場の稽古材料として書けばよいのだ」と開き直ったからじゃ。
では、道場へ行くとするか!

稽古を始める前に、少し歴史を勉強するとしよう。
前回取り上げた直江兼続は、上杉家の初代、上杉景勝に仕えた武将である。
上杉鷹山は、その景勝から数えて第9代目の藩主に当たる。

上杉家の初代は「上杉謙信」ではないかと言われそうじゃが、
歴史家の解釈では、上杉家が名実共に確立したのは景勝の時代だとして、
彼を初代としているのじゃ。

よく知られているように、上杉鷹山は日向高鍋藩の秋月家からの養子である。
養子だが、母方が上杉家と血縁があることから、赤の他人というわけではない。
ちなみに、上杉家の第4代藩主、上杉網憲は吉良家からの養子で、
実父は、あの吉良上野介である。

鷹山の本名は治憲(はるのり)と言い、1767年、16歳で藩主の座に付いた。
この頃の上杉家は財政が逼迫し、20万両(およそ150~200億円)の借金を抱えていた。
石高(企業でいえば売上)は15万石だが、実際は30万石と言われているので、
およそ、実質の年商分の借金と思ってよいだろう。
大変な額だが、経営的に絶望的な数字とは言えまい。
つまり、借金の額が問題ではなく、問題の本質は別にあるということじゃな。
これは大事なポイントだが、当道場の道場生であれば、ピンと来る数字であろう。
なに、「さっぱり分からん」だと!
『渇!』
問題は家臣団の数にあった。
つまり社員数じゃな。
初代藩主、景勝の時代の最盛期、上杉家は120万石の大藩であった。
その時代の社員数を、売上が75%減の30万石になっても維持していたのじゃ。
その数、6000人と言われている。
当時、同じ規模の大名の家臣団が1000~1200人ぐらいなので、
人件費倒産間近であったわけじゃな。
前藩主の重定(しげさだ)は、領地を幕府に差し出し、後は幕府に委ねようとしていたくらいである。
要するに、会社更生法の適用申請である。

さて、ここからが当道場の稽古であるぞ。
重定を継いだ鷹山が何をしたかを推察せよ。
心して思考せよ。
・・・・・・・・・
どうかな・・・
自分なりに考えたならば、以下を読んで欲しい。

この程度の状態ならば、首切りを行えば、藩財政が立ち直るのは明白である。
経営学的には、これが正しい答えといえる。
しかし、鷹山は家臣の首切りをしなかった。
では、どうしたと思うかな?

まず、倹約による赤字減らしを実施した。
この程度は、誰しもが考えることではあるな!
しかし、鷹山の徹底ぶりは凄かった。
江戸で藩主が暮らす費用を、1500両から209両(86%減)にする。
奥女中50人を9人に減らす。
服装は藩主も木綿とするなど、自らがまず限界以上の節約に撤した。
これでは、家臣たちも見習うしかないわけじゃな。

だが、倹約だけでは、人件費をカバーできない。
新たな産業の振興や従来産業の効率化なども行ったが、
これも誰しもが考える施策に過ぎない。

特筆すべきは、次の2点じゃ。
藩士達に帰農させたことと、学校の再建である。
江戸時代の侍は、今でいう地方公務員みたいな存在である。
仕事の大半が事務作業という間接業務である。
彼らの多くを、直接稼ぐ部門(つまり、田畑という現場)へ配属させたわけである。
城に登城させず、農村で畑仕事をさせたのじゃ。

当然、誇り高き武士の反発はすごかった。
倹約令への反発も相まって、鷹山が幽閉されかかったほどである。
やむなく、鷹山は、その中心人物に切腹を命じた。
鷹山の改革といえども、血が流れたのだ。
鷹山の心中は察して余りある。

後年、改革の中心人物であった腹心の不正が発覚したことがある。
その藩士は、鷹山に向かってこう言った。
「改革には負の側面も犠牲も必要です」
それに対し、鷹山はこう言ったといわれている。
「私の改革には、負も犠牲も必要ない。そのために改革がどれほど遅れようとかまわない」
おそらく、鷹山の脳裏には、血が流れたその日の光景が蘇ったのであろう。
その言葉通り、米沢藩上杉家が借金を完済したのは、鷹山の死から60年後、
次々代、斉定(なりさだ)の時代であった。
改革に最も大事なのは、このような覚悟だということを物語るエピソードじゃな。

鷹山を語る、こんなエピソードもある。
米沢を大型の台風が襲った時のことである。
心配した藩士が、こう進言した。
「たいそう霊力のある祈祷師がおります。彼に台風の進路を変えさせてはいかがでしょうか」
おいおい、笑ってはいかん。
当時は、そんなことが大真面目に語られていた時代なのだ。
これに対し、鷹山はこう答えたという。
「やめておこう。たとえ、それで我が藩が救われても、他藩が被害を蒙る(こうむる)」
彼の信条を語る話である。

最後に、学校の再建であるが、閉鎖されていた藩校・興譲館を再興させただけでなく、藩士、農民などの身分を問わずに誰もが学べるようにした。
あの時代にである。
この藩校は、「山形県立米沢興譲館高等学校」として、現在に至っている。
鷹山の慧眼(けいがん)に敬服する次第である。


(お詫び)
前回(17回)の直江兼続の章で、以下の文章を書いた。
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しかも、関が原へ取って返す家康軍を追撃するでもなく、関が原に直行するでもなく、
要するに、「何もせずに傍観した」のである。
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この見解は少々厳しすぎるかもしれないので、以下のごとく修正を加える。
この当時、上杉の背後には伊達政宗がいて、虎視眈々と会津を狙っていた。
かつ、正宗は家康と相通じている。
正宗の存在が、上杉軍の追撃や関が原への進軍を困難にしていた。
結果としての傍観もやむを得なかったといえる。
「意味の薄い危険な賭けは回避する」
これも兼続の経営信条なのである。