第39回:廃炉か再稼働か

2013.09.10



事故から2年半が経過しました。
「早いもので・・」と書こうとしてやめました。
「まだ、それだけの時間しか経っていないのか・・」。
これが実感です。

そのような中で、福島第一原発の汚染水漏えい事故が起きました。
この事故とは関係ないと思われていた「東京オリンピック」の招致にまで影響が及びました。
幸い、東京開催に決定しましたが、放射能に対する生理的ともいえる恐怖感が世界を覆っていることを思い知らされました。
それなのに、一番鈍感なのが当事者の東電ですから、あの事故が起きたことも「当然」と思えます。


安倍首相は、オリンピック招致のプレゼンで、「放射能は完全に抑え込む」と宣言しました。
IOC委員は一応この宣言を支持したようですが、批判の声もあります。
今後の実行が問われる重要な課題です。


本コーナーは、原発への賛成、反対の結論を出すことを目的とせず、読者の方々に「考える材料を提供すること」を心掛けてきました。
再稼働の是非は、とても難しいテーマです。
では、特別講師に再稼働の問題を解説してもらいます。


 
賛否両論の中で、政府は再稼働への方針を固めました。
しかし、再稼働は原子力行政の問題の一部にしかすぎません。
将来は、原発の新増設の可否がもっと大きな問題となります。
既存原発の再稼働を行っても、新増設がない限り、原発は順次廃炉の時を迎え、40年もすれば大半の原発は廃炉になります。結果として「原発ゼロ」の日は必ず来るのです。    

政府は新増設に対する姿勢を明確にしていません。
基本は「認める」なのでしょうが、新増設は、再稼働よりはるかに敷居の高い問題です。
政府は、まず再稼働を認め、「原発が稼働している状態が当たり前」の状況を作り、その上で、新増設に対する国民合意を作ろうと考えているのだと思われます。

それが良いかどうかはさておき、我々には考えておくべきことがあります。
将来のこととはいえ、化石燃料は必ず枯渇します。
原発の燃料であるウランとて有限の資源です。
そのためにも、再生可能エネルギーの技術の進化は必須です。
しかし、それだけで人類が必要とするエネルギーを賄うことはできません。
どうしても、まだ出来ていない核融合発電が必要になる時がきます。
たぶん、22世紀には・・です。

再稼働の是非という表層のことではなく、将来のエネルギーのことも考えて、このあとの解説を読んでいただくことを望みます。



 
【新安全基準】


再稼働の是非は、原子力規制委員会が決めた新安全基準に則(のっと)り決めることになっている。
この新安全基準は、原子力発電所の過酷事故に対する基準ということで制定されたが、幾つもの問題点をはらんでいる。
例えば、基準の要件となる「新たに必要となる設備」の詳細が固まっていないとか、用地や原発の規模などの実態に即していない基準も少なくない。
その問題点を幾つか指摘してみる。
客観的事実だけを述べるので、反対、賛成抜きで解説を読んで欲しい。




問題点1.用地不足の原発は再稼働できないのか

新基準案によると、(1)フィルター付きベント、(2)緊急時対策所、(3)特定安全施設(第2制御室)、(4)常設の非常用ディーゼル発電機を収める新たな建屋が必要になる。
だが、原発によっては、敷地拡張が事実上困難な場所に立地している。
たとえば、関電が保有する大飯(4基)、美浜(3基)、高浜(4基)の各発電所は、敦賀半島の先端部分に立地している。
そのため、新たな建屋を建設するには、山を削るか海岸を埋め立てるかなどの大規模な土木工事が必要となる。
しかし、新基準案では施設の大きさや数などが明確になっていない。
拡張工事を行うとなると巨額の投資が必要になるが、その見積りすら出来ない状況である。
これでは、電力会社は廃炉にするかどうかの判断もつかない。



問題点2.要件定義が一切不明の第2制御室

新基準案のあやふやさを象徴する施設が「第2制御室」である。
この制御室は、航空機テロや大規模災害などで中央制御室が使用不能になる事態を想定し、原子炉建屋から離れた場所で原発をコントロールする設備として、新たに義務付けられた。
しかし、その具体的な設置場所などは一切示されていない。

電力会社など事業者側が第2制御室の設置場所を「地下」にする案を示したが、規制委側は「原子炉から少し離れた場所」とし、口頭で「例えば、100メートル先」などとあいまいな言い方に終始している。いまだに、結論は出ていない。
そもそも新基準を決めた検討チーム内では、こうした具体的な議論はなされなかったと聞く。
また、原子力規制委員会の事務局である規制庁内部では、「航空機が衝突する衝撃を算定できるのか、そもそも疑問だ」という声があるとも聞く。
さらに、「テロ対策は原則公開しないのが国際常識。ゆえに、新基準でも詳細には踏み込めない」とする意見もある。
電力会社側は、ともかく再稼働申請を出した上で、規制委の判断を待つしかないようである。


問題点3.対策を検討中や工事中でも再稼働を認めるのか?

電力4社は規制委に対し原発再稼働を申請し、規制委は5原発10基の安全審査に入ると発表した。
だが、完成に時間がかかる施設では「工事中」や「検討中」の記述が目立つ。
例えば、美浜、大飯などでは、津波対策の防護壁の完成は年内として、「工事中」である。
防潮堤に至っては、大飯が平成26年、美浜は28年完成となっている。
このほかにも、格納容器内の圧力を逃す際の放射性物質を吸い取るフィルター付きベントや常設の非常用ディーゼル発電機などは、大飯3、4号機で27年度中、その他はいずれも「検討中」になっている。
これでも再稼働OKとなるのか。疑問が残る。


【そもそも、新安全基準の目的とは】

新規制で義務付けられた防潮堤建設などは、かなりの時間がかかる。
では、「どのくらいの猶予期間を認めるのか」に対し、肝心の規制庁は、「規制案の文言に猶予期間を設けるニュアンスが含まれている」という“文学的表現”に終始している。
どうも、規制委の中は個人的見解ばかりで、具体的な議論はなされていない節がある。

そもそも、この新安全基準は、原発を止めることが目的なのか、安全度を高めて稼働させることが目的なのか、いまだによく分からない。

「原発がなくても電力は足りているではないか」という意見がある。
たしかに、綱渡りとはいえ、停電も起きていない。
しかし、これから景気が上がってくるとなると、電力不足は深刻さを増すであろう。
石油、天然ガスの輸入代金による貿易赤字の急増も見過ごせなくなる。
原発全廃の上、他のエネルギー源もその代替が出来ないとなったら、政府、電力会社は再稼働の“見切り発車”をするかもしれない。
その時でも規制委は機能するのであろうか。そこが一番の問題である。


【福島第一原発と他の原発との違い】

福島第一原発と同じように津波に襲われた福島第二原発や東海第二原発は生き残っている。
生き残れなかった福島第一原発との違いはどこにあったのであろうか。
それは、「外部電源」が残っていたかどうかである。

福島第一原発は、地震によって外部電源が断たれ、そこを津波に襲われ非常用電源装置も破壊された。
その上に、いくつもの不手際を重ね、時間を空費したことで、手に負えない事態になってしまった。

福島第二原発や東海第二原発のように外部電源が生きていれば、津波によって非常用電源装置が破壊されても、原発は持ちこたえることができたはずである。
原発設計時には盛り込まれていた「非常事態への備え」を、福島第一原発はことごとく軽視していた。
そのため、外部電源が断たれ、かつ、その復旧にも失敗した。
「なぜ、この軽視が許されてしまっていたのか」「他の原発は大丈夫なのか」
その検証こそが、再稼働の分水嶺だと思う。
新安全基準を何度読んでも、その思考の痕跡は見えてこなかった。


 
【地震予知】

原発の再稼働には、地震学者たちが中心となっている委員会が、その判断を左右しているらしい。
原子力規制委員会の決まり文句、「活断層が・・」は、そこがより所のようである。
しかし、これには大いなる疑問がある。
今の地震学者たちに、これからの地震を予知できるだけの科学的なデータと理論があるのであろうか。

東日本大震災の後、1ヵ月ほど過ぎたあたりから、地震学者たちはこんな言い方をし出した。
「今まで想定していた地震規模をはるかに超えていた」、「三陸沖での基本的な想定の枠組みが根本から間違っていた」、あげくの果てに、「地震のイメージすら出来ていなかった」と言い出す学者もいた。

これらの発言を、「地震学者たちは勇気を持って率直な告白をした」と受け止める向きがある。
しかし、その後の発言を聞いていると、地震学者たちの自己弁護と世論への迎合でしかないように思えてきた。

「想定の枠組みが根本から間違っていた」とは、それまでの説の全否定ということである。
ならば、地震学者たちは、相当の時間をかけて、地震予知を根本から考え直すことに取り組むものと思っていた。
しかし、2012年の秋あたりから、「自分は『30年以内に20%の確率で大地震が起こる』と予測していたのだが、それを圧力によってつぶされた」との発言が地震学者から出てきた。
これら地震学者たちの一連の発言をつなぎ合わせると、以下のようになる。

「自分たちの理論は根本から間違っていた。しかし、自分は地震を予測できていた。だが、それを圧力によって潰された」と。
一般人には全く理解できない。
「根本から間違っていた」理論で、どうして「地震の予知は出来ていた」と言えるのであろうか。



地震から1年を過ぎたあたりから、この種の発言が増えてきたように思う。
「首都圏で4年以内に70%の確率で大地震が起こる」と発表した地震学者もいる。
大震災に関するマスコミの批判がもっぱら原発に向けられているのをよいことに、自分たちの失態を不問に付してしまおうという魂胆が透けてみえるのである。
こんな彼らが中心の委員会が出す見解が、原発再稼働を左右するというのである。

地震というより津波のすさまじいまでの破壊力は、今も人々の感覚を狂わせたままである。
さらに、「絶対安全」と思い込んでいた原発の事故は、裏切られた思いの大きさで、また、見えない放射能への恐怖で、人々の意識を縛ったままである。
この2つの意識が融合して、実際より遥かに大きな恐怖が日本を、そして世界を覆っている。
そこにつけ込んで、矛盾だらけの言動やスタンドプレーを行う学者、マスコミ、反核運動家、そして政治家たちがはびこる。

イタリアでは地震予測が甘すぎたという理由で、地震学者7人に禁錮6年の刑が言い渡されたという。
実に“ばかげた判決”である。
今後、イタリアでは地震の過大予測が横行するであろう。
甘い予測が罪になるなら、思いっきり過大な予測をしておいたほうが安全だからである。
今の日本は、まさにそのような傾向にあり、原発再稼働を左右する規制委員会は、こうした地震学者たちの意見に左右されている。
それでよいのであろうか。


 

予告通り、次回(第40回)で本コーナーを終了する予定です。
最終回の題名は、ずばり「原子力」です。
キュリー夫人が放射線を発見してから115年、人類は、この力を「原子力」と名付け、多くの研究者たちが研究を重ねてきました。
ちなみに、「放射能」も「放射性物質」も彼女の命名による言葉です。

それは、神が与えた力なのか、悪魔が与えた力なのか。
アインシュタインのような、キリスト教を深く信仰していた学者は、大いに悩んだと言われています。
無宗教の私にその悩みはありませんが、その力の一端をこの身に浴びた者として、複雑な思いがあります。
その心境を含めて、最後に私の考えを述べたいと思います。