第10回:21世紀を生き抜く経営論
2007.10.01
最後の10章に来てしまった。
最後の章は、これからの時代を生き抜く経営論を論じてみたいと思う。
◆ゼネコン外し
最近、ゼネコンの管理能力が落ちて、品質面や安全面での事故が増えているという声を聞く。
偽装設計の時も、「施工を請け負ったゼネコンが偽装を見抜けないのはおかしい」という厳しい意見も出てい た。
では、これからの時代、ゼネコンは不要になるのであろうか。
たしかに、サブコンでも大手や財務能力及び管理能力の高い会社ならば、ゼネコン抜きで現場を動かす力を持っているのも事実である。
しかし、大半の現場はゼネコン抜きでは動かない。
ゼネコンを外しても有効に現場が動く仕組みを作らない限り、ゼネコン外しが無理なことは明白である。
ある業界紙で「発注者とゼネコンと専門工事会社の3者がそれぞれ相互に協力する仕組みを作って・・」の記事を見た。
それぞれ2者間の組み合わせを3組作って機能させるという案であったように思う。
記事ではそれ以上の具体策がなかったので論評は控えるが、筆者の経験から言うと「難しい」と思う。
この3者の利害は一致していない。
利害の対立する3者を組み合わせて3組の組み合わせを作っても、利害の対立がより複雑になるだけのような気がする。
利害の対立とはそんな綺麗ごとでは解けないのである。
最近、公共工事において、「三方良し・・・」というフレーズを聞く。
発注者、請負者、市民の三方がともに「良し」となる公共工事という意味である。
提唱している方と筆者は相互に知り合いなので悪口は書けないが、上記の業界紙の記事と同様、三体問題の難しさを感じる。
何より、市民は「三方良し・・」の存在すら知らない人が大半である。
要に位置する発注者の真意のほどもよく分からない。
請負関係で発注者に隷属させられている建設業界の期待だけが大きく感じるのは筆者だけであろうか。
掛け声運動だけで終わることを危惧している。
どうも、現実は一向に改善されないままであるが、情報化社会の進展が建設マネジメントの世界を劇的に変えてしまいそうな気配が出てきた。
これまでの建設現場は「無理が通れば道理は引っ込む」式の管理が多かった。
この非論理性が建設マネジメントのIT化を阻んできた。
しかし、IT技術の発達と若年技術者の増加(老齢化が著しい建設現場ではあるが、それでも世代交代は進む)によって、この障壁も徐々に低くなってきた。
近未来、有効なIT管理手法さえ確立すれば、建設マネジメントの半自動化は進むように思える。
後は、安全管理に対する法的な再整備と保険の整備・拡大、それにプロジェクト・ファイナンスの実現である。
これで従来のゼネコンの役割は確実に後退する。これはゼネコンの危機なのか、それとも逆にチャンスなのか。
さらにサブコンにとっては吉なのか凶なのか・・・。
答えは「各々の経営者の胸の内にある」。
◆経営者の役割の再認識
前項の結論から見て、これからの企業改革は「経営者の役割の再認識」から始めるべきといえる。
しかも、この再認識を「建設会社」ではなく「一般の企業」を経営している意識で考えなくてはならない。
業界の中で経営を考えると、どうしても経営層の意識が「序列の確認」になり、業界内の順位だとか、元請下請だとかにこだわった経営を考えてしまう。
このような意識を捨て、一般企業の経営を行うという観点で企業の目的を考えて欲しいのである。
これは難しそうに思えるが、実は非常に簡単な公式で表せる。
企業というものは全て『個人の力の総和<企業の総合力』を目指しているはずである。
そうでないなら、みな個人に戻って仕事をしたほうがよいということになる。
上記の公式を成立させるために、社員の適正配置と全体利益の向上に繋がる能力発揮の仕組み作りが必要になるのだが、それこそ経営者の役割である。
かつて、筆者はこう言っていた。
「大企業でも先進的な企業はここ数年、経営の中小企業化を必死に進めている。
中小企業化した大企業は本当に強くなる。
中小企業が遅れをとれば致命傷である。
中小企業は改善などではなく、変身が必要との認識を強く持ってもらいたい」。
スーパーゼネコンを中心に有力大手はこの改革を進展させている。
市場が重なる中堅ゼネコンの苦しさはその表れでもある。
そして徐々に地方の市場にも変化の波は押し寄せてきている。
早くから手を打ってきた企業は耐えられても、時間だけを空費してきた企業は耐えられないかもしれない。
残された時間は少ない。
企業トップも社員も明日からでも変身に向けた行動が必要である。
◆経営者の変身に必要なこと
では、企業トップの変身には何が必要なのか。
以下の問いは時代を超えた普遍的なものといえるが、この4つの問いに答えて欲しい。
(1)あなたは、プライベート同格(私的な関係では社員とまったく同格なのだという考え)
を貫き、言動に表せる経営者ですか?
(2)たとえ自分一人になっても自社の経営をやりぬく気概と具体的戦略がありますか?
(3)倒産は経営者が悪い、社員や銀行が悪いわけではないと本心から言えますか?
(4)これからの厳しい企業社会の中で、自分が経営者でいることのメリットを見出せますか?
一つでも「No」や「?」があったら、そこが変身すべき課題と思って欲しい。
◆社員の変身に必要なこと
次に、社員が変わるためには何が必要か。
ポイントは「視覚的に見える経営」に変えることである。個条書きにすると、
(1)会計監査の仕組みを機能化させ、自社の強い点、弱い点を視覚化する
(2)自社独自の強みを生かす業務を優先して強化し、他の業務を整理縮小する
(3)顧客との相互信頼関係を築ける社員を優遇し、そうでない社員は再教育する
(4)信頼の道具としての品質管理、安全管理の仕組みを作り直す
(5)全社利益管理が出来る原価管理の仕組みを一から作り直す
(6)経営が望む成果につながる評価ポイントだけに絞った人事考課の実施
上記がベストというわけではない。自社がベストと思えるものを列記してみるべきである。
◆会計の基本的セオリー
上記で述べてきたことが総花過ぎる、あるいは多過ぎるという批判もあろう。
そのような方には、「経営とはテクニックである」と割り切って考えてみることを勧める。
その場合、テクニックというからにはまず会計の基本的セオリーを理解する必要がある。
経営者の中には、企業会計を損益会計だと誤解している向きが多いが、企業会計の本質は資本会計である。
資本の確保と流出が企業活動なのである。
そして、「流出>確保」が続けば企業は死ぬのである。
不況の時代においては資本の確保は難しくなるが、資本の流出は管理可能である。
資本流出の計画が予算設定であり、その実行チェックと是正が管理の実行である。
企業にとって、希望的観測で会計を管理することは危険である。
数値管理を「損益計算主義 → 現金主義」に変えなくてはならない。
そのためには費用発生をできる限り早く捉えることが必要である。
「実行予算 → 発注管理」の徹底がこれにあたる。
さらに、それでも発生する不測の事態に備えるため、企業体制の柔軟性を増しておく必要がある。
具体的には固定費の削減であるが、一律削減は企業の活力を削ぐ恐れがある。
人、モノ、投資、成果回収の動きを組み合わせたシステム管理の中でキャッシュフローを制御する会計に変えるべきである。
◆自社の強みの分析と人材配置
次に自社の強みの分析を行なうのだが、これは徹底した数値解析で行うことを勧める。
そして、この数値分析された各要素に個々の社員の能力を組み合わせていく配置転換を行う。
このとき、本当に必要で、かつ採算性が高い要素だけを実務として残すことに徹する。
メーンの仕事以外は思い切ってアウトソーシングの積極的利用を図り、経営の柔軟性を向上させるべきである。
このことは、結果として人員削減になるかもしれない。
その是非には賛否両論があるが、決定は個々の経営者の意思一つである。
経営者たる者、どちらの結論であろうと他人に批判させてはならない。
ただ、一つだけ言っておく。
社員を残したいがために「仕事を作る」ことだけは厳禁である。理由は説明するまでも無い。
◆人材の発掘・育成
人材発掘や育成は大事な経営要素だが建前や精神論に陥ってはいけない。
実利の追求とモラルのバランスが企業人を育てる基本である。
そして、一人ひとりのやる気を醸成する「動機」に気を配るべきである。
かつ、その動機はどんなものでも許容するべきである。
例え、「異性にモテたい」の類であってもである。
「損得勘定」は動機として一番多いと思われる。
だから、「儲かったら報酬に跳ね返えして欲しい」という社員の欲望を抑えつけたのでは、これからの人材育成に効果が出ない。
経営者が自らの都合優先で経営策を論じれば、必ず言行不一致の矛盾が露呈する。
このように経営に論理性がなくなれば社員は経営を信用しなくなる。
こうして、人材が育たない会社になる。
ただし、報酬には注意が必要だ。人間のあくなき欲望に火をつける恐れがあるからだ。
破綻した米国のファンド会社の社員の中には70億円ものボーナスを受け取った者もいるが、「少ない」と不満を言ったそうである。
カネ以外の報酬をどう作り、社員にそちらのほうが魅力と感じさせる仕組み・演出も経営者の仕事である。
◆思い立ったが吉日
これらの企業改革はすぐやることが肝心である。
資金的余裕が乏しくても即座に手を打つべきである。
日本には「思い立ったが吉日」という良い言葉がある。
余談だが、この言葉は善人が使う言葉である。悪人は「善は急げ」と言う(笑い)。
◆魅力ある建設産業に
企業にとって金儲けは必須の要素であるが、国民の生活基盤を支える建設産業はそれだけでは存在が許されない産業である。
偽装設計への加担などは論外だが、ホリエモン的経営も建設産業を底辺で支える市民の支持が得られないことを肝に銘ずるべきと思う。
ただし、「挑戦」という経営キーワードは時代に関係なく不変のものである。
この点はIT企業の経営者たちに学ぶべき点も多いと思う。
そのためにも、挑戦者のための敗者復活戦の土壌を業界として育てて欲しい。
これまでは新しい芽が出ると潰そうとする動きばかりが強かった。
逆に、何度でも挑戦できる魅力ある産業に変えていくことが必要である。
新しい時代には新しい芽が必要である。
そんな芽もない不毛な産業に若い人たちが魅力を感じるであろうか。
挑戦し敗れた経営者達に敗者復活の道を開いてあげる。
そんな産業であれば、意欲のある若者の参入も増えるであろう。
また、そのようなやさしさが、市民の人たちが支持してくれる建設産業をつくるものと信ずる。
(おわり)
<あとがき>
この10年間の変化を見てみると、最も変わったのは市場の姿です。
次に政治の世界、そして官僚の上部層です。
変わり方が牛のように鈍いのが建設産業界、全く変わろうとしていないのが官僚の下部層と言っても良いでしょう。
10年前は最も変わらないと思われていた政治の世界が2001年の小泉さんの登場で激変しました。良し悪しは別にして評価してよい点だと思います。
政治 の変化に引きずられる形で官僚のトップ層も変わり始めました。
しかし、実際に我々が接することが多い下部機構は化石のように変わろうとしません。
結局、小泉改革は中途半端に終わり、この化石層までは変えることが出来ませんでした。
後継と目された阿部内閣は1年ももたず瓦解。
その後は、揺り戻しのような政権が続き、政治は弱体化しています。
相対的に官僚の力が強まった感がありますが、それにも脆さを感じます。
政治も行政も自助努力では変われないようです。
ならば、国民が選挙の力で変えるかどうかです。
産業の垣根を越えて、企業経営はこの結果に大きな影響を受けます。
そのことは無視できませんが、しかし、私たち建設産業に携わる者は、政治に期待するのではなく、自らの力で変化する市場に立ち向かっていく必要があります。
市場が欲する企業になること。これ以外の道はないはずです。