第19回:会津藩と薩摩藩
2009.10.21
歴史シリーズ3回目は、会津藩と薩摩藩を取り上げよう。
幕末に正反対の立場となり、激しく争った両藩であるが、
実は非常に似通った性質を持っていた。
それを考えるのが本日の稽古じゃ!
では、道場へ行くとするか!
さてと、稽古を始める前に、恒例の歴史の小勉強から入るとするか。
しっかりと聞くのじゃぞ!
会津は戦国時代、葦名(あしな)氏から伊達政宗、蒲生氏郷(がもううじさと)、
そして上杉景勝と目まぐるしく領主が変わった地じゃな。
関が原の敗戦で上杉景勝が米沢のみに減封された後、
再び、蒲生氏が領主となったが、すぐに加藤氏に変わった。
しかし、この加藤氏もお家騒動で潰れ、その後、保科正之(ほしなまさゆき)に変わったのじゃ。
保科正之は、三代将軍家光の異母弟だが、非常に優れた人物で、
徳川幕府を磐石の強さに成長させた功労者じゃ。
この功で家光より会津23万石(幕末時は40万石)を任ぜられたのだ。
正之は、養父の恩を大事にし、終生「保科」姓を名乗った。
徳川の姓である「松平」を名乗れ、と家光に言われたが、これを硬く固辞した。
泣けるほど律儀な男だったと言えるな(うん、うん)。
松平姓になったのは、三代正容(正之の子)からである。
最後の藩主、容保(かたもり)は九代目にあたる。
さて、一方の薩摩だが、言わずと知れた島津氏が領主じゃな。
島津氏は鎌倉時代の守護に端を発する名門である。
関が原の戦いで西軍についたことで、徳川に滅ぼされる危機に陥った。
しかし、徳川の重臣、井伊直正の取りなしで所領を減らされること無く存続できた。
関が原の「敵中突破」で名高い島津義弘はこの時引退し、家督を三男家久に譲った。
この家久が、薩摩藩の正式な初代とみなされている。
薩摩藩は公称77万石の大藩であるが、土地がやせていたこともあり、
実質は35万石程度だったと言われている。
しかし、将軍正室を輩出した唯一の外様大名だったように、幕府に対する発言権は強かった。
ちなみに、その正室とは、11代将軍・家斉に嫁いだ茂姫と、
13代・家定に嫁いだ篤姫(昨年の大河ドラマですな)である。
さて、長々と歴史を語ったが、これからが稽古の本番じゃぞ!
では聞くが、「会津と薩摩の共通点とは何かな」
これはすぐに分かったろう。
教育熱心だったことだ。
それぞれ、日新館と造士館という藩校が有名だが、
それより特筆すべきは、少年期からの集団教育制度にある。
少年たちが居住する町内において、年上の者が年下の者を教える制度じゃ。
それを年代別に分けて効率よく、またシステム的に行っていた。
時間割も厳しく制定され、学問だけでなく武芸や医療の心得まで教えていた。
この集団教育組織を、会津では「什」、薩摩では「郷」と呼んでいた。
有名な「白虎隊」は、この教育組織の一つであった。
この両藩が幕末において大きな力を持つにいたった理由は、
この教育制度にあったことは、現代の我々が学ばなければならないことじゃな。
さて、次の問題だ。
「なぜ、この両藩が幕末において、先頭で戦わなければならなかったのか」
そこの君、答えてみたまえ!
「強かったから」じゃと。
そりゃ、そうなんだが・・・
50点じゃな!
まあ、いい。次を聞きたまえ。
本道場の第16回「土星の輪と新撰組」を読み返してみよ。
そこに答えがある。
実は、この両藩以外の藩は「まったく弱かった」のじゃよ。
これが正解じゃな。
考えても見よ。
太平の世が260年も続いたのだ。
チャンバラどころか、刀を抜いたことさえ無い侍ばかりになってしまったのじゃ。
我々はTVや映画のおかげで、切り合いをする侍を見慣れておる(?)。
これが誤解の基なんじゃよ。
当時の侍が、みな「渡辺謙」や「真田広之」君だと思ってはいかんぞ。
そうじゃな・・・
その辺のサラリーマン諸氏と思って間違いはなかろう。
毎日、10時頃出社して3時ごろには帰るという、ダメサラリーマンだよ。
腰が痛くなるからと、重さの軽い刀や竹光を差しているといった情けない者もおった。
(刀を質に入れたりしていた侍も多かったようだ)
これが平和というものじゃな。
好景気から一転、大不況に陥った現代の日本。
この幕末とよく似た光景と思わんかな!
太平の空気にふやけてしまったサラリーマンで充満している会社がなんと多いことか。
道場主としては、ため息がでるぞ。
おっと脱線してしまったな。
このふやけた幕末の時代に、敢然と背を向けていたのが会津、薩摩の両藩だったのだ。
いや、この両藩だけだったのだ。
会津は、藩祖・保科正之が「会津は幕府を守る」ことを家訓として残し、
文武両道の厳しい教育を幕末まで貫いた。
薩摩は、関が原の敵中突破や薩摩義士たちを範として、
やはり、文武両道の厳しい教育を貫いた。
偶然ではなく必然だったのだ。
なに! 長州藩がいるって。
そりゃ違うぞ。
たしかに長州も幕府軍と戦ったが、その主力は武士ではない。
町人、農民で構成された「奇兵隊」のような近代スタイルの軍であり、
それを作った高杉晋作、大村益次郎の才能こそが長州の力だったのじゃ。
不幸にして、会津、薩摩の両藩は、激しく戦い、薩摩の勝利に終わった。
しかし、その薩摩武士の反乱である西南戦争で最も激しく薩軍を攻め立てた政府軍は、
会津の生き残りを含んだ警視庁抜刀隊だったという。
歴史は実に多くのことを我々に教えてくれるものじゃな。
現在、日新館は、会津若松市に復元されたものがあるが、
造士館は跡形もない。
鹿児島市にある「集成館」や「維新ふるさと館」の展示で面影を偲ぶのみである。
幕末に正反対の立場となり、激しく争った両藩であるが、
実は非常に似通った性質を持っていた。
それを考えるのが本日の稽古じゃ!
では、道場へ行くとするか!
さてと、稽古を始める前に、恒例の歴史の小勉強から入るとするか。
しっかりと聞くのじゃぞ!
会津は戦国時代、葦名(あしな)氏から伊達政宗、蒲生氏郷(がもううじさと)、
そして上杉景勝と目まぐるしく領主が変わった地じゃな。
関が原の敗戦で上杉景勝が米沢のみに減封された後、
再び、蒲生氏が領主となったが、すぐに加藤氏に変わった。
しかし、この加藤氏もお家騒動で潰れ、その後、保科正之(ほしなまさゆき)に変わったのじゃ。
保科正之は、三代将軍家光の異母弟だが、非常に優れた人物で、
徳川幕府を磐石の強さに成長させた功労者じゃ。
この功で家光より会津23万石(幕末時は40万石)を任ぜられたのだ。
正之は、養父の恩を大事にし、終生「保科」姓を名乗った。
徳川の姓である「松平」を名乗れ、と家光に言われたが、これを硬く固辞した。
泣けるほど律儀な男だったと言えるな(うん、うん)。
松平姓になったのは、三代正容(正之の子)からである。
最後の藩主、容保(かたもり)は九代目にあたる。
さて、一方の薩摩だが、言わずと知れた島津氏が領主じゃな。
島津氏は鎌倉時代の守護に端を発する名門である。
関が原の戦いで西軍についたことで、徳川に滅ぼされる危機に陥った。
しかし、徳川の重臣、井伊直正の取りなしで所領を減らされること無く存続できた。
関が原の「敵中突破」で名高い島津義弘はこの時引退し、家督を三男家久に譲った。
この家久が、薩摩藩の正式な初代とみなされている。
薩摩藩は公称77万石の大藩であるが、土地がやせていたこともあり、
実質は35万石程度だったと言われている。
しかし、将軍正室を輩出した唯一の外様大名だったように、幕府に対する発言権は強かった。
ちなみに、その正室とは、11代将軍・家斉に嫁いだ茂姫と、
13代・家定に嫁いだ篤姫(昨年の大河ドラマですな)である。
さて、長々と歴史を語ったが、これからが稽古の本番じゃぞ!
では聞くが、「会津と薩摩の共通点とは何かな」
これはすぐに分かったろう。
教育熱心だったことだ。
それぞれ、日新館と造士館という藩校が有名だが、
それより特筆すべきは、少年期からの集団教育制度にある。
少年たちが居住する町内において、年上の者が年下の者を教える制度じゃ。
それを年代別に分けて効率よく、またシステム的に行っていた。
時間割も厳しく制定され、学問だけでなく武芸や医療の心得まで教えていた。
この集団教育組織を、会津では「什」、薩摩では「郷」と呼んでいた。
有名な「白虎隊」は、この教育組織の一つであった。
この両藩が幕末において大きな力を持つにいたった理由は、
この教育制度にあったことは、現代の我々が学ばなければならないことじゃな。
さて、次の問題だ。
「なぜ、この両藩が幕末において、先頭で戦わなければならなかったのか」
そこの君、答えてみたまえ!
「強かったから」じゃと。
そりゃ、そうなんだが・・・
50点じゃな!
まあ、いい。次を聞きたまえ。
本道場の第16回「土星の輪と新撰組」を読み返してみよ。
そこに答えがある。
実は、この両藩以外の藩は「まったく弱かった」のじゃよ。
これが正解じゃな。
考えても見よ。
太平の世が260年も続いたのだ。
チャンバラどころか、刀を抜いたことさえ無い侍ばかりになってしまったのじゃ。
我々はTVや映画のおかげで、切り合いをする侍を見慣れておる(?)。
これが誤解の基なんじゃよ。
当時の侍が、みな「渡辺謙」や「真田広之」君だと思ってはいかんぞ。
そうじゃな・・・
その辺のサラリーマン諸氏と思って間違いはなかろう。
毎日、10時頃出社して3時ごろには帰るという、ダメサラリーマンだよ。
腰が痛くなるからと、重さの軽い刀や竹光を差しているといった情けない者もおった。
(刀を質に入れたりしていた侍も多かったようだ)
これが平和というものじゃな。
好景気から一転、大不況に陥った現代の日本。
この幕末とよく似た光景と思わんかな!
太平の空気にふやけてしまったサラリーマンで充満している会社がなんと多いことか。
道場主としては、ため息がでるぞ。
おっと脱線してしまったな。
このふやけた幕末の時代に、敢然と背を向けていたのが会津、薩摩の両藩だったのだ。
いや、この両藩だけだったのだ。
会津は、藩祖・保科正之が「会津は幕府を守る」ことを家訓として残し、
文武両道の厳しい教育を幕末まで貫いた。
薩摩は、関が原の敵中突破や薩摩義士たちを範として、
やはり、文武両道の厳しい教育を貫いた。
偶然ではなく必然だったのだ。
なに! 長州藩がいるって。
そりゃ違うぞ。
たしかに長州も幕府軍と戦ったが、その主力は武士ではない。
町人、農民で構成された「奇兵隊」のような近代スタイルの軍であり、
それを作った高杉晋作、大村益次郎の才能こそが長州の力だったのじゃ。
不幸にして、会津、薩摩の両藩は、激しく戦い、薩摩の勝利に終わった。
しかし、その薩摩武士の反乱である西南戦争で最も激しく薩軍を攻め立てた政府軍は、
会津の生き残りを含んだ警視庁抜刀隊だったという。
歴史は実に多くのことを我々に教えてくれるものじゃな。
現在、日新館は、会津若松市に復元されたものがあるが、
造士館は跡形もない。
鹿児島市にある「集成館」や「維新ふるさと館」の展示で面影を偲ぶのみである。