第23回:繁栄か滅亡か①

2011.07.17



ここまで、福島第一原発の事故から始まり、原発の実態、もんじゅのこと、そして放射線の人体への影響など、多岐にわたり特別講師に解説してもらった。

いろいろな方からご質問もいただいた。
とても感謝しておる。

原発事故に関しては、本コーナー以外でも、いろいろなサイトやブログで語られており、今や、百花繚乱(ひゃっかりょうらん)の状態じゃ。

じゃが、「このコーナーの解説が一番分かりやすい」という、うれしい感想も寄せられておる。
特別講師も、「疲れが吹き飛ぶほど、うれしい。励みになる」と言っておった。
ありがたいことじゃと感謝する。

さて、福島第一原発の今後じゃが、
細野原発事故担当相は「ステップ1」の取り組みをほぼ達成したと発表した。
じゃが、わしには強がりとしか聞こえん。
頼みの綱の循環冷却システムはトラブル続きなのに、相変わらず政府は体裁を取り繕うばかりじゃ。
「細野さん、若いのに、古だぬきみたいな言い方しなさんな!」
そう言いたいのう。
福島第一原発の真の収束には、20年~30年という長い年月が必要じゃろう。
腹をくくって国民に何度でも説明していくしかないんじゃ。

そんな状態の福島の今後を追いかけながら、
我々は原子力とどう向き合っていくべきかを、正面切って論じてみたいと思うたのじゃ。
引き続き、特別講師に、その大きな命題の解説を続けてもらうことにした。


今回の事故を契機に「脱原発」論が優勢になっています。
事故が人々に与えた衝撃は大きく、あの無残な原子炉建屋の姿を連日見せられたら、不安で原発反対一色になってしまうのは道理です。
その上、「基準値を超える放射線量が・・」との報道が相次ぎます。
ベクレルとかシーベルトとかいう単位が妙な形で巷(ちまた)に定着してしまいました。
無関心よりは関心を持ったほうがよいのですが、
放射線に対する無限の恐怖が人々の意識に張り付いてしまったようです。

さらに、その沈静化を狙って政府や東電が発表する声明や説明が、説得力ゼロのひどさです。
かえって不安を増大させるという皮肉な結果になっています。
そのさ中に、菅首相は「脱原発」宣言をしました。
しかし、ついこの間まで「原子力にとても強い」を自負されていた方です。
こんなに簡単に180度方向転換できるものでしょうか。
案の定、「あれは個人的意見で、政府の見解ではない」と前言を翻しました。
「やれやれ」としか言いようがありません。

原子力は完成した技術ではなく、発展途上の、それも初期段階の技術です。
どんな技術にも「絶対安全」はありません。
「安全神話」など、それこそ「神話」です。
どんなものでも、ある確率で必ず事故は起きます。
まして、技術の初期段階ではかなりの確率で起きます。

でも、だから「ダメ」との結論は短絡過ぎます。
この事故を乗り越えていけるか否かの検証が大事なのです。
必要なのは、0か100かではない冷静な議論です。
そして、見える事実の裏にある「見えない事実」をも読み取ることが大切です。

たとえば、原子力推進派のフランスの思惑は、もちろん、原発の輸出です。

ライバル日本のつまずきを「千載一遇」のチャンスと捉えているわけです。
そして、「脱原発」のドイツも、きれいごとでの宣言ではありません。
国内で割高になって行き詰った自然エネルギー技術を輸出するチャンスと見ての宣言です。
なんの戦略も持たない日本が、フランスやドイツのまねをしても、滑稽なだけでなく、国の将来が危険になります。

前回で解説したように、感情による情緒的判断は避けるべきです。
確かな知識を得て情報を読み込み、その理解から論理的な判断をすべきです。
そのためには、事実を出来るだけ正確に知ることが必要です。
そこで、今回から数回で、原子力利用の歴史と問題点を見ていくことにしました。
その中で、我々人類は、この先も原子力と付き合うべきか、それとも拒絶すべきなのか、
という重い命題への答を探っていきたいと思います。
テーマが重いため、筆力足らずになることはご容赦ください。
また、ご意見がある方は、ぜひ「質問箱」へお願いします。



【世界初の原子力利用】

みなさんは、世界初の原子力利用が原子爆弾であったことはご存知のことと思う。
それは、広島・・・ではない。
1945年、米国は人類初の原子爆弾を、ニューメキシコ州アラモゴード砂漠のホワイトサンズ射爆場において爆発させた。(下の写真、Wikipediaより転載)
「トリニティテスト」と呼ばれるこの核実験が、世界初の原子力利用だったのである。
このように、原子力は「悪魔の火」として人類の前に姿を現した。


この人類初の原子爆弾は「ガジェット(The gadget)」と命名された。
この時は、砂漠の真ん中で炸裂させたが、米国は、第2号「リトルボーイ(濃縮ウラン型)」を広島に、そして、第3号「ファットマン(プルトニウム型)」を長崎にと、相次いで人間が住む都市の上で炸裂させた。
この2発の炸裂で得られた「人間の被爆データ」が、放射線治療や原子力利用の際の貴重なデータとして、今も利用されているのである。
20万人を超えるとも言われる犠牲者の命、そして多くの被爆者の方の不幸と引き換えにである。




【世界初の原子力発電】

原子爆弾の開発に遅れること6年、世界初の原子力発電は、1951年、米国アイダホ州アルコ近郊の砂漠の中に建設された「EBR-I」で行われたものとされている(下の写真)。

このとき得られた電気は、200ワットの電球を4個点灯しただけの800ワットであるが、これが人類が灯(とも)した初めての原子力の明かりである(下の写真:Wikipediaより転載)。

この時の原子力発電は、原爆の「悪魔の火」に対して「神の火」と言われた。
EBR-Iとは、
“Experimental Breeder Reactor No.1”の略で、直訳すると「増殖実験炉1号機」である。
つまり、人類初の原子力発電所は、高速増殖炉だったのである。
当然、燃料はウランではなくプルトニウムである。
EBR-Iは、米国国立原子炉研究所(現在のアイダホ国立研究所)の施設として、1949年に建設を開始し、1951年に完成した。
そして、1951年8月24日に初臨界に達し、12月20日に人類初の原子力発電に成功したのである。
このように、EBR-Iの目的は原子力発電の証明だけではなく、増殖炉の可能性を証明することでもあった。
そして、1953年に「核燃料の増殖ができる」ことは証明された。
しかし、1955年にEBR-Iは運転員のミスにより部分的な炉心溶融を引き起こした。
後のスリーマイル島、福島第一原発の事故へとつながるヒューマンエラー、そして炉心溶融は、最初の原子炉で起きていたのである。
結局、EBR-Iは1964年に稼働を停止し、閉鎖された。




【再び、原子力は兵器の時代へ:水素爆弾への発展】

平和利用への歩みをよそに、兵器としての原子力利用は短期間で飛躍的な発展を遂げた。
最初の原爆「ガジェット」から僅か7年後の1952年11月1日、エニウェトク環礁で、米国は人類初の水爆実験、アイビー作戦 (Operation Ivy) を実施。
この作戦でアメリカはマイク (Mike) というコードネームで呼ばれる水爆の爆発実験に成功した。

ウランやプルトニウムといった重たい元素の核分裂による原爆と違い、水爆は重水素および三重水素の核融合によるエネルギー解放である。
いずれも核反応によって失われる僅かな(わずかな)元素の質量がエネルギーに変わる反応であるが、核融合は核分裂に比べ、その転換エネルギーは、2~3桁も大きい。
それだけ難しい技術であるが、起爆剤に原爆を使うことで短期間に開発されてしまった。

Ivy Mike水爆の核出力は10.4メガトン(原爆 約680個分)であったが、気体のままでは核融合反応を起こさない重水素や三重水素を零下二百数十度に冷却液化するため、大規模な冷却装置を付属させなければならなかった。
このため、Ivy Mikeの重量は65トンにもなり、実用兵器には程遠いものであった。
ところが、翌1953年、ソビエト連邦は小型軽量化した水爆の実験(RDS-6)に成功した(実際には水爆ではなかったといわれているが)。
この型では、重水素などの熱核材料をリチウムと化合させて重水素化リチウムとして固体化し、大掛かりな付属装置を不要なものとした。
この時の開発主任であったサハロフ博士が「水爆の父」と呼ばれるのは、この原理の発見による。
ショックを受けた米国は、その後、同様の原理の小型水爆の開発にまい進した。
1954年初頭、この型の水爆は完成し、3月1日、キャッスル作戦 (Operation Castle) と呼ぶ実験がビキニ環礁で実施された。
この作戦の一つ、ブラボー (Bravo) 実験では、初めて海中で水爆を爆発させた。

ブラボーは、原子爆弾1000個分の爆発力(15Mt)を持っていた。
この海中爆発により海底には直径約2キロメートル、深さ73メートルのクレーターが形成された。


このとき、同海域で操業中の日本のマグロ漁船・第五福竜丸は、この水爆の死の灰を浴びた。
そして、無線長だった久保山愛吉さんが半年後、原爆症の血清肝炎で死亡。
水爆による犠牲者もまた日本人という悲劇であった。

実験当時、第五福竜丸は米国が設定した危険水域の外で操業していた。
爆発の閃光(前述の写真)を目にした船長は、危険を察知して海域からの脱出を指示したが、はえ縄の収容に時間がかかり、数時間に渡って放射性廃棄物の降灰を受け続け、第五福竜丸の船員23名は全員被爆した。
当時の日記には、「船体一面が雪に覆われたように真っ白になった」とある。
胸の痛む光景が想像される。

後に、同海域では第五福竜丸以外にも多くの漁船が操業していたことが判明。
放射性降下物を浴びた漁船は数百隻にのぼり、被爆者は2万人を越えたとみられている。
このように、予想以上に深刻な被害が発生した原因は、米国がこの爆弾の威力を4 ~8メガトン(Mt)と小さめに見積もり、危険区域を狭く設定したことにある。
爆弾の実際の威力は予想を遥かに超える15メガトン(Mt)であった為、安全区域にいたはずの多くの人々が被爆することとなったのである。

第五福竜丸の久保山無線長(当時40歳)は「原水爆による犠牲者は、私で最後にして欲しい」との遺言を遺して息を引き取った。
この事が起爆剤となり、当時の日本国内に強烈な反核運動が起こった。
反核運動が反米運動へ移行することを恐れた米国は、日本との間で被爆者補償の交渉を急ぎ、「米国の責任を追及しない」という確約を日本政府から受けた。
この確約を受け、1955年、米国から200万ドルが支払われたが、賠償金ではなく“ex gratia(好意による)”見舞金として支払われた。
米国は、第五福竜丸の被爆を矮小化しようと様々な手を打った。

4月22日、国家安全保障会議作戦調整委員会 (OCB) は、「水爆や関連する開発への日本人の好ましくない態度を相殺するための米政府の行動リスト」を起草し、科学的対策として「日本人患者の発病の原因は、放射能よりもむしろサンゴの塵(ちり)の化学的影響である」と明記した。

さらに、「放射線の影響を受けた日本の漁師が死んだ場合、日米合同の病理解剖や死因についての共同声明の発表の準備も含め、非常事態対策案を練る」としていた。

しかし、同年9月に久保山無線長が死亡した際、日本人医師団は死因を「放射能症」と発表したが、米国は現在に至るまで「放射線が直接の原因ではない」との見解を取り続けている。
欺瞞としか言いようがないが、日本政府は今日まで沈黙したままである。

第五福竜丸は被爆後、SOSはおろか一切の無線発信をせず、他の数百隻の漁船同様、自力で焼津港に帰港した。
これは、実験海域での被爆の事実を隠蔽しようとする米軍に撃沈されることを恐れていたためであるともいわれている。




【周辺海域のその後】

ビキニ環礁から約240km離れたロンゲラップ環礁にも死の灰が降り積もり、島民64人が被曝して避難した。
1997年の国際原子力機関(IAEA)の調査では、「永住には適さない」と報告されている。
現在は、放射能レベル自体、短期間の滞在では問題ないレベルまで下がり、美しい沿岸や水爆実験で沈んだ第二次大戦時の艦船がダイビングスポットになっている。
リゾートホテルも建っている。




【生態系への影響】

2008年4月、オーストラリア研究会議(ARC)は、ビキニ環礁のサンゴ礁の現状について調査した。
その発表によると、ビキニ環礁では、面積の80%のサンゴ礁が回復しているが、28種のサンゴが原水爆実験により絶滅した。
放射能に強い種、弱い種は、どの生物にも見られる。
このあたりの解説は、もう少し後の回で解説する。



【その後の軍事競争の激化】

今日まで、水爆は一度も戦争で使用されていない。
しかし、1950~70年代、世界各地で大規模な核実験(その多くは水爆実験)が数多く行われた。
米ソ両国による冷戦時代は、核実験に加速がかかり、1955年には爆撃機にも搭載可能になった。
やがて、1957年11月8日、英国が「クラップルX」で水爆保有国となった。
中国は1966年5月9日に120キロトンの最初の水爆実験に成功し、四番目の水爆保有国となった。
フランスは、原爆では米ソ英に次ぐ4番目の保有国であったが、水爆では中国に後れをとり、1968年8月24日にファンガタウファ環礁でカノープスと呼ばれる水爆実験で5番目の保有国となった。
(下の写真)

水爆は、起爆剤として原爆を使う。つまり、「核分裂爆発 → 核融合爆発」となることから「二段階熱核実験」と呼ばれた。
フランスが行ったカノープス実験の映像がその様子を生々しく捉えている。
以下の写真は、フランスの軍関係者が撮影したものを、Pierre J.氏がノイズの削除などを行い、スキャンしたものと言われている。



第一段階:核分裂爆発


第二段階:核融合爆発


爆発後に立ち上る巨大なキノコ雲
おどろおどろしさに気持ちがつぶされそうです(筆者)

3枚とも以下のサイトより引用
http://labaq.com/archives/50790282.html @lbqcom

注記:2010/1/15に、この核実験の名前は、「カノープス」ではなく「リコルヌ(Licorne)」と追記されたが、どちらが正しいかは不明。

その後も核兵器保有国は、インド、パキスタン、北朝鮮と増え続け、持っていると言われる国を含めれば9カ国にも及ぶ。
このほかに潜在的能力を持つ国は、日本を含め、35か国とされている。
1963年、部分的核実験禁止条約(PTBT)が発効し、大気圏・宇宙空間・水中での核実験は一切禁止された。
しかし、これ以降も核保有国はPTBTで禁止されなかった地下核実験をたびたび行なった。
1996年に地下核実験禁止を含む包括的核実験禁止条約(CTBT)が国連で採択されたが、未批准国は核実験を強行し、そのことで2011年現在も条約は発効していない。




【史上最大の水素爆弾】

歴史上、最大の水爆は、旧ソビエト連邦のRDS-220「ツァーリ・ボンバ」と呼ばれるもので、50メガトン(広島型原爆の約3,300倍、第二次世界大戦で使用された全爆薬の10倍)の核出力を誇った。 設計上は100メガトンを超えていたと言われているが、安全上、威力を減じて爆発させた。

この爆弾は、直径2m×長さ8m、重さ27トンと巨大で、専用のTu-95爆撃機に搭載され、1961年10月30日にノヴァヤゼムリャ島の上空約4,000mで炸裂した。
爆発の火球は地表に達したと言われているので、その直径は8000mを超えたということである。

ちなみに世界最大の花火、日本の4尺玉の火球の直径は800mと言われる。
変な比較であるが、その大きさが感覚的に掴めるであろうか。

爆発による衝撃波は地球を三周し、地球の軌道が数センチ動いたとも言われている。
その威力のほどが伺える。(興味がある方は、YouTube他の映像サイトをご覧ください)



この爆弾は米ソ間の軍拡競争の果ての産物であるが、爆弾自体は大きすぎてミサイルには搭載できず、実用には適さなかった。
実戦よりむしろ、西側への威嚇が主な目的であったと言われている。




【愚かな競争の果てに】

さすがに、このバカげた競争に米ソ両国は疲れ果てたが、一度手にした核兵器を手放すことは出来なかった。これが人間の性(さが)というものである。
人類のこれまでの歴史を見ればよく分かる。
一度手にした武器を手放すのは、それ以上の高性能武器を手にしたときである。
バカげたことではあるが、その性が人類の文明を発展させてきたことも事実である。
原発問題も、このことを切り離しては考えられない。
次回は、原子力の平和利用であったはずの原子力発電所の変遷を追ってみる。

断片的には知っていたこともあるが、このように目の前に示されると、「う~ん」と唸ってしまうのう。
どうじゃな、諸君!
我々人類は、どえらい世界に入ってしまったのじゃ。
次回は、原発の歴史をひも解いてもらえそうじゃな。
「神の火」であったはずの原発がどうして「悪魔の顔」を見せたのか?
その答が、そこにありそうじゃな。