第36回:原発の危険性を「客観的」に考える
2012.11.16
昨年の3月15日から始まった本コーナーですが、早いもので1年8ヶ月が過ぎました。
驚くほど多くの方に読んでいただき、また、たくさんのご意見もいただきました。
当初は10回程度と思っていた連載がかくも長く続いたことは、読者のみなさんのご支援のおかげと思っております。深く感謝申し上げます。
ですが、そろそろ連載を終了する時が来ました。
40回を目標に最後のまとめに入る予定ですので、最後までお付き合いをよろしくお願いします。
それでは、今回も特別講師にお願いします。
福島第一原発の事故によって、日本の原子力推進に急ブレーキがかかりました。
このまま日本の原子力事業は立ち枯れていくのか、それとも再出発するのか。
この先の日本に大きな影響を与え、また、世界にも多大な影響を与えるこの問題を政治が真剣に考えている様子が見えません。
政策の指揮を取るべき野田首相は迷走するばかりでした。
わずか数カ月の間に、「再稼働」→「原発ゼロ」→「うやむや」と、責任感覚ゼロです。
ようやく総選挙です。
民主党は「原発ゼロ」を選挙公約に挙げるということですが、原発問題は選挙目当ての道具ではありません。
呆れるほど幼稚な政治意識、政治感覚です。
それでは、野田政権の迷走の中心にあった裏事情から解説しましょう。
【原発ゼロの裏事情】
野田首相は、大飯原発を再稼働させたとき、「豊かで人間らしい暮らしを送るために、安価で安定した電気の存在は欠かせない。国民の生活を守るために再起動すべきというのが私の判断」と言い、
さらに、「人々の日常の暮らしを守るという責務を放棄することはできない」と言い切った。
それが9月に入ると、「2030年代に原発ゼロを目指す」と180度方向が違うことを言い出した。
当然、産業界は猛反発し、政権幹部の中からも「(原発を止めたら)日本経済がダメになる」と断言する声も出てきた。
「2030年代の原発ゼロ」を打ち出す予定だった「国家戦略会議」は紛糾し、結局、閣議決定は見送られた。
少し時間が経った今、この裏で何があったのか、様々な情報から分析してみた。
そもそも野田首相には、原子力行政に関する明確な政治ポリシーは無いと断言してよい。
「原発ゼロ」を裏で画策したのは、古川元久国家戦略担当相である。
野田首相が、9月22日、反原発の市民団体メンバーと官邸で面会したのも、古川国家戦略担当相がお膳立てしたものと言われている。
この間、古川担当相は「原発ゼロを打ち出したい」と主に党内若手議員を説得して歩いていた。
表の首相面会でマスコミを引き付け、裏では議員を個別説得するという戦術である。
では、古川担当相は「反原発」政治家なのかと言うと、どうも、そうではない。
これまで「反原発」の発言をしたことは記憶にも記録にもない。
それでは、なぜそんな動きを・・。
選挙対策である。
今の民主党は次期衆院選での惨敗におびえる烏合の衆で、政党としての体を為していない。
もともとポピュリズム体質の民主党が、なりふり構わず選挙対策に走った結果なのである。
古川担当相は、その先兵的役割を担っているものと思われる。
彼が主に説得の狙いを付けたのが1年生議員であることからも、選挙対策であることは明白である。
選挙基盤の弱い1年生議員は、受け狙いで「脱原発」に組みするであろうと読んだのである。
古川氏は「国家戦略」担当相である。
だが、古川氏のやっていることを「国家戦略」と呼べるのか。
こうした古川担当相の動きに対し、原発を所管する経産省は「明らかに選挙対策だ」と不快感を隠そうとしない。
経産省としては、原発の依存度は下げても、『原発ゼロ』の考えは全くない。
その経産省に対して、古川担当相はこう話したという。
「(エネルギー基本計画は)国家戦略室で文書をまとめればいいんですから」
分かるようで分からない「永田町」言葉の典型である。
この言葉を、某通産官僚OBは次のように解説した。
「そもそも、国家戦略相には権限がないんだよ。
民主党は、『国家戦略相を法的にきちんと位置付ける』と国民に約束していたが、これらの法案整備は放置されたまま。つまり、国家戦略相は単なる特命大臣で権限は何もない」
では、古川担当相は、「原発ゼロ」をどのように実現させようと言うのか。
この官僚OBは続けて、
「法的裏付けがないのだから、そもそも国家戦略室は政権交代で消えてなくなる。
古川担当相が『原発ゼロ』の文書をまとめたとしても、その文書は何の効力もなくなる。
『だから、ここは選挙対策として“ゼロ”としておくだけ』という意図が見え見えだよ。
民主党は、本気で『原発ゼロを実現』なんて思っていないさ」
「原発ゼロ」は「原発ゼロ宣言」だけで出来るものではない。
まず法制化が必要である。
しかし、民主党議員に聞いても、「政府内でも党内でも、『法案検討』の指示も話もない」という。
「法律を作る気がない」ということは、本気でゼロにする気はないということである。
エネルギー戦略は、国の根幹に関わる問題である。
放射能に対する国民の不安を利用して、選挙対策に使おうという野田政権の姿勢はあまりにもお粗末である。
【リトアニアのその後】
第34回で紹介した、リトアニアの原発建設に暗雲が垂れ込めている。
10月14日に行われた国民投票で、建設反対が63%と賛成の34%を大きく上回った。
この国民投票に法的拘束力はないが、同時に実施された議会選挙で計画の再点検を求める左派系野党が躍進し、政権の枠組みが変わることが確実となった。
6月に議会が承認した日立との原発建設契約に影響が出る可能性も指摘されている。
リトアニアは、2004年にEU(欧州連合)に加盟したが、その時の条件で、旧ソ連のチェルノブイリ原発と同型の原発を2009年に稼働を停止した。
以来、自前の電力が不足し、現在では電力の約7割をロシアからの輸入に頼っている。
この状況からの脱却を目指して原発の新設を決め、日立との契約までこぎ着けたが、原発を不安視する国民の声が現実化した格好である。
国際契約を破棄することは大きな信用失墜であり、政府は計画を進めたいが、政権再編が必至と言われる中では全てが不透明になってしまった。
政府は「国民投票を行うのが早過ぎた」とぼやいているが、後の祭りである。
ただ、与党が議会選挙で敗れたのは、原発問題より近年の財政緊縮政策にあるとの見方が強い。
その中で、約4000億円の原発建設費も反発を呼ぶ材料になったと思われる。
やはり、カネの問題なんですね。
【マスコミの役割】
朝日新聞の夕刊に連載された「原発とメディア」は、「メディア自身がメディアを語る」という、見方によっては意欲的な取り組みだと思う。
しかし、Netを見ると、反原発派から批判が浴びせ掛けられている。
反原発派は、朝日新聞を自分たちの仲間、代弁者と思っていたのではないか。
だから、その姿勢を変えたと、批判が集中したのだと思われる。
かつて大マスコミは、「民主党政権は我々が作った」と自負していた。
が、それはとんでもない思い違いである。
民主主義国家では、国民が政権を選択するのである。
マスコミは、その選択に際し、一方に偏らない的確な情報を国民に伝えることが役割である。
ゆめゆめ、「政権を作ること」など、あってはならないことである。
このことは原発問題に関しても言えるのではないか。
推進への誘導も反原発への誘導もあってはならぬことである。
国民が自分の意思で選択が出来るように、客観的事実だけを提供すべきである。
マスコミが国民の意思決定をリードするようなことがあっては断じてならない。
原発の黎明期、読売新聞は「原発推進の世論」を誘導する重要な役割を担った。
現在、朝日新聞が「反原発の世論」を誘導する役割を果たしている。
両紙の立場は反対であるが、同じ構図であることに変わりない。
【原発と周辺自治体】
上記の朝日新聞の連載の中で、原発の周辺自治体の対応について書かれた回があった。
文中の表現を借りると、「電力会社から地元自治体には巨額のマネーが提供されていた」とある。
原発の地元自治体には国から多くの補助金や交付金が出ていたが、ここで言う「巨額のマネー」とは、それとは別のカネのことである。
この実態や経緯を知る者は意外なほど少ない。
私は、電力会社の役員をしていた友人から聞いた話や私自身が遭遇した事実と照らし合わせて、この記事の信ぴょう性は高いと思った。
こうしたカネは、形の上では「電力会社からの寄付」となっている。
だが、電力会社の自主的な寄付などではない。
実態は、地元が「カネをくれ」と要求し、電力会社はいやいやカネを出していたのである。
それを合法化するために「寄付」としてきた。
この結果、地元自治体は裕福になり、住民の多くもそれらによる利益を享受していた。
地元は、これらの要求について、原発を受け入れる以上、「当然の要求」と思ってきたであろう。
たしかに、その通りである。
万が一事故になれば、住民は大きな災禍に見舞われる。
それに備える費用を要求するのは当然である。
しかし、地元自治体は、万が一の事故に備え、住民の安全を守る施策に、これらのカネを使わなかった。
新庁舎や公民館などの箱モノ作りに没頭した。事故対策に使うべきカネを、無関係な「ばらまき」で費やしてしまったのである。
米国の原発の周辺自治体は、放射能漏えい事故に備えて出動する対策車などを常備している。「原発は絶対に安全」とは考えないで、いざという緊急事態を予測し、それに備えているのである。この日米の地元自治体の意識・見識の差はあまりにも大きい。
【原発事故を起こした本当の伏線】
原発事故以来、東電は袋叩きである。勿論、東電の責任は重い。一言の弁解も出来ない。
しかし、口を極めて東電を非難する地元自治体の首長の会見を聞いていると、どうしても違和感が拭いきれない。
前述したように、原発も一つのテクノロジーである以上、事故はある確率で必ず起きる。
それなのに、地元自治体は、事故への備えを軽く見て、東電から得たあり余るカネを事故対策に使ってこなかった。
そこが事故の伏線の一つになっていたのでは、と思うのである。
私は、自治体の首長を非難しているのではない。最も悪いのは、首長の政策をチェックし、ともに住民の安全確保を果たすべきであった議会である。そして、そのような議員たちを選択してきた地域住民なのである。
朝日の連載の主旨とは違うかもしれないが、私はそのように感じた。
事故の張本人(福島事故の場合は、東電)は、社会から厳しい制裁を受ける。しかし、事故が起きるに至った過程やその背景を調べると、問題の根は深く広く潜んでいることがわかる。
事故以来、「原子力ムラの住人」として、原子力関係者たちを吊るし上げる風潮が目に付く。
ほとんど中世の魔女狩りやリンチのように感じる。
利権に癒着してきた者たちを擁護する気は毛頭ないが、多くの技術者たちは、真面目に必死に取り組んできた。だが、彼らとて人間である。様々な利害関係に翻弄され、あるいは、マンネリに陥り緊張感を失っていく。これも必然なのである。
だから安全確保には、より多方面からなるステークホルダー(利害関係者)による絶え間のないチェックが必要なのである。それが、原発に関わる技術者たちに緊張感を与え、リスクを最小化する努力が継続できるのである。
このようなチェック体制を作ってこなかった責任は、政府、電力会社、福島県、周辺の市町村全てが負うべきである。そして、それを要請しなかった原子炉メーカーにも責任があり、国民への啓蒙を怠ってきたマスメディアにもある。