第25回:8月15日に寄せて

2011.08.15



前回の24回までに、福島第一原発の事故の解説、そして原水爆実験の実態~世界の原子力発電所の歴史に至るまでを解説してきた。
次の第26回は、日本の原発の歴史から現代に至るまでの経緯を解説し、福島第一原発の事故の伏線や背景を解明し、これからの原子力利用を賛否両論の立場で解説していく予定じゃ。

今回は、その前の番外編として、広島・長崎への原爆投下の背景を解説する回とした。
原発事故と原爆は直接の関係はなくても、深い因果関係にある。

また、両方とも国家戦略が深く関わっておる。
その影の部分を少しでも知ってもらおうと、
終戦記念日に、今回を企画したんじゃ。
今回は、意見はなるべく抑え、事実だけを書く。
そのつもりで読んで欲しい。



【米国の主張(百万人神話)】

米国は、戦後、「広島と長崎の原爆投下が戦争を早く終わらせ、多くの命を救った」という主張を繰り返しておる。
具体的に「100万人の命を救ったとか」、「50万人」とかの数字を挙げてさえおる。
なぜ、こんな主張を繰り返しておるかと言うと、米国内でさえ、「原爆投下は必要なかった」という声が根強くあるからなんじゃ。
戦後間もなく、米政府の戦略爆撃調査団の報告が出された。

その内容は、
「原爆が投下されなかったとしても日本は降伏しただろう」

この結論に米国政府関係者は大慌てに慌てた。
そして、既に退役していた元陸軍長官ヘンリー・スチムソン(右の写真:出典不明)に国民向けの文章を書くことを依頼した。

なぜ彼が?
彼は、当時の米国民に「米国の良心」として人気が高かったからじゃ。
彼は渋ったが、結局、
「日本上陸作戦を行えば、米軍だけでも百万人以上の死傷者が出ると知らされていた」と雑誌に書いた。
これが「百万人神話」の始まりだったのじゃ。

もちろん、この数字には何の根拠もない。
その後、トルーマン元大統領は、回顧録などで「もし原爆を投下しなかったら」の死者数を挙げているが、「米国民50万」とか「連合国軍25万人、日本人25万人」などと、言う度に数字が変わっておる。
唯一信用に足る数字は、原爆投下前に陸軍から大統領へ出された以下の報告じゃ。
「九州上陸作戦を敢行すれば、30日で3万1000人の米兵が死傷するだろう」

原爆投下前の3万1000人が、投下後には、50万、100万という数字になっておる。
「原爆投下を正当化するために作られた数字」であることは明白じゃ。
しかし、今も米国の子供たちには、「原爆のおかげで犠牲が食い止められた」という考えが浸透しておるのじゃ。
だから、「原爆を落とした米国は悪い」という原水爆禁止団体などの糾弾は逆効果なんじゃ。
誰が悪いではなく、当時の事実を丹念に拾い集め、ジグゾーパズルのように時系列の中にはめ込んでいくんじゃ。
さすれば、真実に近い姿が見えてくる。
原発問題を考える予行演習として、「終戦と原爆の問題」で、これをやってみよう。

さて、これからが本題じゃ。
日付に十分な注意を払って読んで欲しい。



 
【原爆投下と終戦(1945年2月~6月)】

2月4日
ヤルタ会談(ソ連クリミヤ半島)。
米英ソの3カ国が戦争終結に向けての会談を行った。

米国は、日本と「日ソ不可侵条約」を結んでいるソ連の参戦を強く促した。
この会談で、スターリンは、ドイツ降伏の3ヶ月後の対日参戦を約束。

4月7日
小磯内閣瓦解、鈴木貫太郎(当時77歳)が首相となる。

4月12日
米大統領ルーズベルト急死。副大統領だったトルーマンが大統領に昇格。
トルーマンは副大統領であったが、さしたる政治経歴もなく、国民への知名度も低かった。

4月25日
スチムソン陸軍長官(前述の百万人神話の当事者)からトルーマンにマンハッタン計画(原爆製造計画)の詳細が報告された。
つまり、大統領以外の政府関係者には、原爆製造の詳細はほとんど知らされていなかったのである。
初めて全容を知ったトルーマンの心中はいかがであったろうか?
不幸の引き金は、この時引かれたのであろうか。

5月8日
ドイツ降伏。
この時点で、米国が原爆を落とせる国は日本だけになった。
トルーマンは、ソ連の対日参戦がいつになるかを、しきりに気にするようになった。

5月8日
トルーマンは、ハリー・ホプキンスをソ連に特使として派遣し、スターリンから対日参戦日を聞きだすことに成功。
その日は、8月8日だった。
広島ヘの原爆投下が8月6日であることから、この日付は重要である。

5月31日
「バーンズ・プラン」が決定(国務長官バーンズの名前から採る)。

その内容は、
①できるだけ早く日本に対して原爆を使用する。
②投下目標は大都市とする。
③事前警告をしない。(実際には事前警告はされたと言う説もある)

つまり、5月31日の時点で、日本への原爆投下は決定されていた。
一方で、トルーマンが気にしていたのは、ソ連の対日参戦日である。
この因果関係は次第に明らかになる。


6月8日
御前会議で、戦争完遂、本土決戦を決定。
この日の御前会議出席者は,内閣総理大臣鈴木貫太郎,枢密院議長平沼騏一郎,海軍大臣米内光政,陸軍大臣阿南惟幾,軍需大臣豊田貞次郎,農商大臣石黒忠篤,外務大臣兼大東亜大臣東郷茂徳,軍令部総長豊田副武,参謀総長代表参謀次長河辺虎四郎。
「今後採るべき戦争指導の基本大綱」として,戦争完遂,本土決戦準備を決定した。
米国の意図は全く察知出来てない。




【原爆投下と終戦(1945年7月~8月15日)】


7月6日
米国政府、戦争を終結させるための「ポツダム宣言」の草稿を作成。

7月15日
ポツダム会談(の予定日)だったが延期。
ドイツ降伏以降、英国のチャーチル首相は会談の早期開催を何度も要請。しかし、トルーマンは、すべて拒否。
やっと同意して首脳が集まったのがこの日であったが、結局会議は開かれなかった。
英国のチャーチルはこの間の選挙に敗れ、英国首相はアトリーに代わっていた。

7月15日
ソ連のスターリンは、トルーマンに8月15日の対日参戦を直接告げた。(7月17日のトルーマンの日記より)
首脳同士の秘密会談は行っていたということ。

7月16日
米国は、初の原爆実験(トリニティ実験)に成功。詳しくは、第14回を参照。
ポツダム(ドイツ)にいたトルーマンへの報告書にはこうあった。
「無事出産。結果は予想以上」

7月16日
米国は、暗号解読によって日本がソ連を通じて和平交渉を求めていることを知る。
(7月16日のスチムソン陸軍長官の日記より)

7月17日
ポツダム会議開催(~8月1日)。
結局、会議の開催が原爆実験の翌日になったことに注目。

7月24日
トルーマンは、原爆投下命令書の作成を、陸軍参謀総長代理トーマス・ハンディ大将に指示。

7月25日
トーマス・ハンディより、陸軍戦略航空団司令カール・スパーツ大将へ原爆投下の命令書 “ORDER TO DROP THE ATOMIC BOMB” が手渡された。
そこには、「1945年8月3日以降、広島・小倉・新潟・長崎のいずれかに原爆を投下せよ」と記されてあった。






【トルーマンの真の意図】

この原爆投下命令書にはトルーマン大統領の署名はない。陸軍参謀総長代理であったトーマス・ハンディ大将の署名になる命令書である。
実は、この文書は、署名者のトーマス・ハンディが書いたものではない。
マンハッタン計画の軍事指揮官レズリー・グローブズ准将が作成したものである。
グローブズの位は、将軍の最低ランクの准将である。
このことは、軍の序列を飛び越して、グローブズ准将が大統領の命を受けた決定権者だったことを意味している。
上級将軍のハンディ等は、形式を取り繕うだけの存在だったのである。

これはどういうことであろうか。
推測の域を出ないが、4月25日に原爆の存在を知ったトルーマンは、この時に原爆使用の決断をしていたのではないか。そして、投下日などの決定をマンハッタン計画の軍事指揮官のグローブズ准将に委ねた。ハンディ大将は、形式的な署名者であったと見るのが自然である。


7月26日
ポツダム宣言が出される。
ポツダム宣言が、日本への原爆投下決定の後だったことは重大な事実である。
さらに、7月6日の草案より、次の事項が削られていた。

①共同署名国から「ソ連」を削除
②第12項「天皇の地位の保持」を全文削除

この変更が何を意味するかは明白である。
まず、日本が戦争終結の仲介を頼んでいたソ連が共同署名していれば、日本はソ連の参戦を知り、この時点で戦争継続を諦(あきら)める恐れがあった。
さらに、「天皇の地位を保全する」という条項を削れば、天皇制だけは守ろうとしている日本は、戦争継続を選択するだろうという意図である。
つまり、日本に戦争を止めさせるのではなく、止めさせない決意をさせるための宣言であった。
「どうして?」
日本人なら、みなそう思うであろう。
トルーマンの心中は、「どうしても原爆を使いたかった」のである。
だから、反対者が出ることが予想された政府や軍首脳たちとの協議の場を一切設けなかったのである。
そうしておいて、日本が受諾できない内容に宣言を変えたのである。

7月27日
日本政府は、ポツダム宣言を論評なしに公表。

7月28日
日本政府は、新聞紙上で「笑止」「聖戦あくまでも完遂」と報道。
鈴木貫太郎首相は、記者会見で「共同声明はカイロ会談の焼き直し。政府としては重大な価値あるものとは認めず黙殺し、断固戦争完遂に邁進する」と述べた。
トルーマンのほくそ笑む顔が見えるようである。
「してやったり」と喝さいを叫んだことと思う。
この「黙殺」発言は、日本の代表的通信社であった同盟通信社では
"ignore it entirely"=「完全に無視する」と訳し、ロイターとAP通信は
"Reject"=「拒絶」と翻訳し、世界に配信された。
この両者の翻訳の違いは、読者のみなさまに考えていただこう。





【日本側の事情】

鈴木貫太郎は、このポツダム宣言黙殺発言について、戦後一年経ってからこう述べて後悔した。
「この一言は後々に至るまで余のまことに遺憾と思う点であり…」
しかし、鈴木首相のポツダム宣言黙殺発言について、こんな話もある。
高木惣吉海軍少将が、米内光政大将に対して、「なぜ総理にあんなくだらぬことを放言させたのですか」と質問した。しかし、米内は沈黙したままだったという。

米内に限らず、当時の日本側の指導者たちは、米国とは全く異なる視点で日本の前途を心配していたのである。
それは、戦争が連戦連敗になるにつれ,軍上層部や国民の間に,共産革命を許容する動きが出てきて、国体が変革される(つまり、天皇制の廃止の)可能性があったからである。
前述の2月14日の「近衛上奏文」も同様の趣旨からである。

今から見れば滑稽なことであるが、天皇の権威は,天孫降臨を象徴する三種の神器によって成り立っていると当時は考えられていた。だから、米軍が名古屋に上陸し、伊勢神宮や熱田神宮が襲われ、三種の神器が強奪されることを一番危惧していた。当時の米国がこのことを知ったなら腹を抱えて笑ったことであろう。

その一方で、ソ連は天皇制を否定する共産主義者の集まりである。ドイツを倒した強大な軍事力が日本に向けば、日本は占領され国体も変革されると心配していた。

つまり、原爆投下を心配する余裕など微塵もなかったのである。
無理もないと言える。
原爆の威力は当の米国ですら正確には認識されていなかった。当時の日本の軍人・政治家の理解をはるかに超えていたのは当然であろう。
3月10日の東京大空襲では一夜にして10万人が死んだ。つまり、都市が一夜で壊滅することは、東京以外でも連日目の当たりにし、経験済みだったのである。
だから、本土が焦土となっても徹底抗戦を主張していた指導者が、理解不能の原爆の威力で降伏を決断することなどはあり得なかったのである。



8月1日
ポツダム会議終了

写真(右):会談終了後の三巨頭

左から、
・英首相アトリー、
・米大統領トルーマン
・ソ連首相スターリン


後方の左端にいる、米海軍参謀長レーヒ提督は、日本軍兵士の心理研究書を執筆したほどの日本通である。
日本人の恋人もいたと言われている。
彼は、国体護持の条件を提示すれば日本は降伏すると主張し、原爆投下に反対の意見であった。

一方、右から二人目の米国務長官バーンズは反共主義者で、対ソ外交を有利にするために原爆投下を強く主張していた。




【米国側の事情】

米国には、海軍参謀長レーヒ提督や陸軍長官スチムソンのように、天皇制の維持(つまり、国体護持)を約束すれば、国力が破滅に瀕している日本と講和できると考える者もいた。しかし,トルーマンは既に日本への原爆投下を決定していた。
この背景には、戦争末期の玉砕戦や特攻作戦で、「日本人は天皇のためには死をも厭わず戦う狂信的な民族である」との侮蔑や恐れの認識が、軍人、民間を問わず米国人に広まっていたことがある。
だから、国体護持を条件にすれば日本の早期降伏を促すという説は、一部の知日派にしか分からない現実であった。
さらに、ソ連の影が次第に濃くなり、米国の強さをソ連に見せ付けておくべきという、バーンズらの反共主義者の意見も強くなっていた。




8月6日
広島ヘ原爆投下。

→ テニアン島にて、
原爆投下機「エノラ・ゲイ」に原子爆弾「リトルボーイ」を搭載している写真。

原爆は手前のピットに入っている。
B-29をピットの上にバックさせ、そこから持ち上げてB-29の胴体に搭載した。

8月8日
ソ連、日本に宣戦布告。
日本時間23時、ソ連外務大臣ヴャチェスラフ・モロトフより日本の佐藤尚武駐ソ連大使に宣戦布告の通告あり。
佐藤は東京の政府へ連絡しようとしたが領事館の電話は回線が切られており、連絡は出来ず。

8月9日午前3時
ソ連・モンゴル連合軍が参戦。
ハバロフスク時間午前1時(日本時間午前3時)、ソ連軍は満州国境の街に空爆を開始、続いて陸上部隊が国境を越えた。
ソ連は、原爆投下の報を聞き、15日の予定を早めて9日に対日参戦をしたのである。

8月9日午前10時
最高戦争指導者会議(時間は推定)。

出席者は、鈴木首相、東郷外相、阿南陸軍大臣、米内海軍大臣、梅津陸軍参謀総長、豊田海軍軍令総長の6人。本会議は、天皇を除けば、戦争に対する最高意思決定機関であった。
会議では、ポツダム宣言の受諾にあたり、どのような条件を付けるかが協議された。
首相・外相・海相は「国体護持」の1条件のみを付けることを提案したのに対し、陸相および2 人の参謀総長は、国体護持に加え「戦争犯罪人の処罰」「武装解除の方法」「保障占領(占領軍の進駐)」の3 条件の付加を求めた。
「戦犯処罰」は連合国のみが一方的に戦犯を処罰しないよう求める条件であり、「武装解除」は前線での即時の武装解除は困難であるという主張であり、「保障占領」は、連合国の占領は短時日かつ少数の兵力であることという主張であった。
この会議は、連合国への回答を、1 条件にするか4 条件にするかという点で最後まで意見が分かれ、午後1時散会となった。なお、会議中の午前11 時2 分に長崎に原子爆弾が投下されている。
まさに、この期に及んで「会議は踊る」である。

8月9日午前11時02分
長崎ヘ原爆投下。
B-29「ボックスカー」が原爆を投下。

浦上天主堂の壁の一部は、今も爆心地近くに残っている。





【長崎の悲劇:米国の思惑】

ボックスカーの最初の攻撃目標は小倉であった。しかし、小倉は厚い雲に覆われていた。
爆撃効果を撮影するため有視界爆撃が命令されていたボックスカーに、長崎天候観測機から無線が入った。
「長崎上空好天。しかし徐々に雲量増加しつつあり」
小倉から20分の飛行でボックスカーは長崎上空へ侵入したが、長崎市上空もすでに厚い雲に覆い隠されていた。
機長のスウィーニーには、目視爆撃が不可能な場合は太平洋に原爆を投棄するよう命令が出されていた。 迷ったあげく、スウィーニーが命令違反のレーダー爆撃を行おうとした瞬間、本来の投下予定地点より北寄りの雲の切れ間に、一瞬だけ眼下に広がる長崎市街が見えた。
「Tally ho! (攻撃目標視認)」と叫んだスウィーニーは直ちに自動操縦に切り替え、高度9,000mから核爆弾ファットマンを手動投下した。
ファットマンは約1分後の午前11時2分、長崎市街中心部から約3kmもそれた、別荘のテニスコート上空、高度約500mで炸裂した。

長崎は坂の多い街で、しかも爆心が中心部から大きく逸れたおかげで、被害は広島の半分ぐらいだった。
投下されたファットマンはプルトニウム型の原爆で、広島に投下されたリトルボーイの1.5倍くらいの威力があった。
もし、第一目標の小倉で炸裂した場合、平野の多い地形と人口密度から、広島を上回る被害が出たことは想像できる。

運命のいたずらとしか言いようがないが、そもそも2発も原爆を落とす必要があったのかの疑問が湧こう。
米国には「あった」のである。
米国は、広島とは型の違うプルトニウム型の原爆のほうを本命としていた。
戦後、ソ連との対立は不可避と考えていた米国は、どうしても、その威力を確認しておきたかったのである。
米ソとも、人間に対する配慮は全くなかった(日本政府も、であるが・・) 。

8月9日午後:内閣閣議
閣議でも、ポツダム宣言受諾に関する条件が審議されたが、外相と陸相の対立は解決せず、結論は出なかった。

8月9日深夜:御前会議
ついに8 月9日深夜、天皇の面前で御前会議が開かれることとなった。
最高戦争指導者会議の本来の構成員6 人に加え平沼騏一郎枢密院議長が参加。
この会議でも、外相と陸相の主張が対立したが、翌10 日午前2 時頃、昭和天皇は「第一の聖断」を下し、国体護持の1条件のみを付加した、ポツダム宣言の受諾が決定された。

内大臣木戸幸一の日記によれば、天皇はこう語ったとされる。

「本土決戦、本土決戦と云ふけれど、一番大事な九十九里浜の防備も出来て居らず、また決戦師団の武装すら不充分にて、之が充実は9月中旬以後となると云ふ。飛行機の増産も思ふ様には行って居らない。いつも計画と実行とが伴わない。之でどうして戦争に勝つことが出来るか。勿論、忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任者の処罰等、其等の者は忠誠を尽した人々で、それを思ふと実に忍び難いものがある。而し今日は忍び難きを忍ばねばならぬ時と思ふ。(『木戸幸一日記』より引用)

※不謹慎な言い方で申し訳ないが、「倒産前夜の会社の役員会みたい」と思ってしまった。


8月10日:日本は,スイス政府を通じて米国務長官バーンズに降伏を申し出た。
同じ申し出をスウェーデン経由でも行った。両国とも中立国であったからである。

※スイスのMAX GRSLIからバーンズへの書簡内容(1945年8月10日付)

「日本は1945年6月30日、7月11日に中立国のソ連に和平仲介を依頼したが,それは失敗した。天皇が、戦争継続によって世界平和が遠のき、人類がこれ以上惨禍を被ることを憂慮し、平和のために,すみやかに終戦したい希望がある」



8月12日:バーンズ回答
当時の米国務長官であったバーンズの名を取り、「バーンズ回答」と呼ばれている。
内容は、戦後日本の統治に関するものであった。
バーンズ長官は、次の報告をトルーマンに送っている。
"The Japanese Government is ready to accept the terms enumerated in the joint declaration which was issued at Potsdam on July 26th, 1945”
(日本政府は,ポツダム宣言の全文の受諾の準備が整った。)





【日本側の反応】

バーンズ回答に対して、日本側では以下の2点が問題となった。
(1)「the authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander of the Allied Powers(天皇と日本政府の統治権は連合国軍最高司令部の従属化に置かれる)」という個所。

外務省は「subject to」を「制限下に置かれる」と意訳し軍を説得したが、この記述では国体護持が守られるかが曖昧であったため、この点は最後までもめた。

(2)「the ultimate form of the Government of Japan shall, in accordance with the Potsdam
Declaration, be established by the freely expressed will of the Japanese people(日本国政府の最終的形態はポツダム宣言に従い日本国民の自由な意思に基づき決定される)」という個所。
この記述も、「天皇の行政権・立法権を認めず、政府の形態を国民の自由意志で決定するということが国体に反するため、国体護持に適合していない」と問題に挙げられた。

8月13日午前:最高戦争指導者会議
この会議では、上記2点を中心とし、連合国側に国体護持を再照会しようという意見(陸相)と、この条件のまま受諾しようとする意見(外相)が対立、結局、結論が出なかったため、翌14 日午前、再び御前会議が開かれることになった。

※この期に及んでなお・・。どうしようもない「幹部たち」としか言いようがないです。


8月14日:最後の御前会議を開催
この席上で、天皇は再照会をせず、条件受諾の通知を連合国側に行うよう述べた。
この天皇の意思を受け、閣議は終戦を決定した。これにより日本のポツダム宣言受諾は決定した。
再び、木戸幸一の日記による、会議での昭和天皇の発言を記す。

「自分ノ非常ノ決意ニハ変リナイ。内外ノ情勢,国内ノ情態彼我国力戦力ヨリ判断シテ軽々ニ考ヘタモノデハナイ。国体ニ就テハ敵モ認メテ居ルト思フ毛頭不安ナシ。戦争ヲ継続スレバ国体モ国家ノ将来モナクナル。 即チモトモコモナクナル。今停戦セハ将来発展ノ根基ハ残ル。 自分自ラ『ラヂオ』放送シテモヨロシイ。速ニ詔書(大東亜戦争終結ノ詔書)ヲ出シテ此ノ心持ヲ傳ヘヨ。」(『木戸幸一日記』より引用)





【天皇の決断の背景】

昭和天皇は、「昭和天皇独白録」で、終戦の聖断を下した理由として「敵が伊勢湾附近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込が立たない、これでは国体護持は難しい」と述べている。
また、敵である連合国だけでなく、連敗続きの国軍(日本陸海軍)、困窮に陥れられた国民は、この現実を前にして、いずれも天皇の権威を認めるとはかぎらない。日本軍の統制派がソ連や中国共産党と共謀して、国民を煽動し、共産革命を引き起こすかもしれない。
このようなソ連による国体変革の脅威を目前にして、米国への降伏のほうが国体護持の可能性ありと見たことが終戦の決断になったと思われる。

8月14日23時:スイス・スウェーデン経由で連合国側に受諾を通知
ここにおいて、第二次大戦は終戦を迎えることとなったのである。


どうじゃな。
資料の裏付けのある事象だけを取り上げて、時系列に整理してみただけじゃ。
終戦時のことが手に取るように分かるのではないかな。
そして、原爆投下の経緯、その背景もじゃ。

次回の「日本の原発」は、とても重いテーマじゃ。
また、特別講師に語ってもらうが、今後の運転再開の是非の判断は、それぞれの読者にお任せする。
心して読んで欲しい。

参考文献およびWebページ
・「原爆投下と終戦」:東海大学教養学部人間環境学科社会環境課程 鳥飼 行博
torikai@tokai-u.jp
・10代が作る平和新聞「ひろしま国」:中国新聞社
www.chugoku-np.co.jp/hiroshima-koku/exploration/index_20070924.html
・「木戸幸一日記」上下巻:東京大学出版会発行、木戸日記研究会著
・「昭和天皇独白録」:文春文庫発行、寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー著
・Wikipedia