第35回:「命」という言葉の軽さ
2012.08.21
政府が、またまた奇妙なアイディア政策を出してきました。
原発再稼働についての「討論型世論調査」なるものです。かの「事業仕分け」も「子ども手当」も、それまでの政権にはなかった斬新な政策でした。
しかし、どの政策もアイディア倒れに終わり、今ではボロ雑巾のように打ち捨てられています。
この「討論型世論調査」はどうでしょうか。
全国から286人が参加し、15人程度の小グループ別に1時間半討論して、それを集めて一定の結論を出すという主旨のようですが、それで世論調査と言えるのでしょうか。
それでは、今回も原発問題の核心に迫る解説をお送りします。
音楽家の坂本龍一氏がテレビのインタビューで、こう語っていました。
「命あっての経済なんで、命を蔑ろにする経済は、間違っているんですね。」
そして、反原発集会では壇上から、こうも言いました。
「言ってみれば、たかが電気です。
たかが電気のためになぜ命を危険に晒されなければいけないのでしょうか?
たかが電気のために、この美しい日本、そして、国の未来である子供の命を、危険に晒すようなことをすべきではありません。」
Netでは、そんな坂本氏に対して、
「電気で儲けた人がそんなこと言っていいの?」
みたいな批判が出ていました。
電子楽器を多用するテクノポップで一世を風靡した坂本氏に対する揶揄(やゆ)なんでしょうね。
ところで、坂本氏の発言を聞いて「なるほど」と思いました。
反原発派のキーワードは「命」なんですね。
今回は、そんなことを考えながら、原発問題の根本を解説していきたいと思います。
【噛み合わない議論】
原発推進派が「原発停止による電力不足で経済が落ち込む」と警鐘を鳴らせば、反原発派は「経済と命を引き換えにするな」との主張を繰り広げる。
そして、冒頭の坂本氏のように、「子供の命・・」と叫ぶのである。
このような、噛み合わない「不毛の論争」がいつまで続くのであろうか。
反対派が「命」や「子供」といった絶対的なキーワードを前面に出すのに対し、推進派は「経済の落ち込み」を主張する。
訴えかけるインパクトに大きな差が出る。
だから、圧倒的に推進派の分が悪い。
いくらなんでも「子供の命より経済が大事」とは言い切れないからである。
かくして、国民の7割が反対に回るという単純な構図になる。
このように反対派は、「原発を動かせば人の命が奪われる。それも子供から!」と主張する。
この主張に具体性を持たせるため、「原発=原爆」に結び付け、「福島=広島」に結び付けるのである。
常にキーワードは「命」である。
たしかに、命を犠牲にして経済を回す意味はない。
でも、冷静になって考えるべきである。
逆に、経済を犠牲にして命を守れるかどうかを。
過去の歴史を見れば、答は歴然である。
経済的利得が乏しくなったとき、人は命を犠牲にして残された僅かな利得を争ってきた。
経済に疲弊した国家が取ってきた道は、常に侵略と戦争である。
現代では、幸か不幸か、死神たる核兵器を持ったことで大国同士は戦争が出来なくなった。
そのかわり経済戦争はし烈さを増し、弱小国への侵略や第三国を犠牲にしての代理戦争は絶えることがない。
やはり、奪い合う必要のない経済があってこそ、命の安全が保たれるのではないか。
反原発派の主張する「命か経済か」の二者択一ではなく、命と経済の両方を成り立たせる工夫と知恵が求められているのではないか。
その道の過程で原発廃止もあり得ることと思う。
その前提に立てば、議論は噛み合うのではないだろうか。
私は、「命」という言葉は、そんなに軽々しく使うべき言葉ではないと思っている。
【逃げるだけの政府】
関電・大飯原発が再稼働して1ヶ月近くになる。
原子力安全・保安院は、泊原発など3つの原子力発電所のストレステスト(耐性調査)を終え、その結果の審査中だが、北海道の冬のピークまでには、泊原発の再稼働にこぎ着けたいようである。
しかし、9月に原子力規制委員会が発足するまでは今後の手続きが固まらず、停止中の原発の再稼働は見通せないのが現状である。
当然、どの原発にしても、再稼働には「反対」の声が大きくなることが予想される。
ところで、この反対の中身だが、冷静に考えると二種類あるように思える。
「なにがなんでも反対」と「不安があるので反対」の二種類である。
さらに言えば、仕事や雇用などの面から「賛成」と言いたいが、今は「反対」と言っておこうとする層もある。
原発から受けてきた恩恵は莫大な金額に上る。
これがなくなる不安は別の意味で大きい。
このように、地元の方々の心境は、一言では言えないと思う。
国民全体で考えると、一番多い意見は「不安があるので反対」ではないだろうか。
国民の多くは、電力不足になってもよい、経済を破綻させてもよいとは思っていない。
だけど福島の事故の再発は怖い。
このように相矛盾する課題に答を見いだせないのである。
その解決策を持っているのが政府である。
というより、他にだれが持ち得ようか。
しかし、「福島第一原発の事故の反省がなされていない」「政府の説明が不十分」という住民の不安の解消に政府が努力してきたとはおせじにも言えない。
有名になってしまった枝野経済産業相の「ただちに健康を害するような量ではない」というフレーズに代表される、政府の逃げの姿勢、意識は何も変わっていない。
このことが根本の問題なのではないだろうか。
【原発を動かせば、問題は必ず出てくる】
原発に限らず、全ての機械装置は、動かせば必ず問題は発生する。
建設工事のようなプロジェクトも、始まれば問題や事故は必ずと言ってよいほど起きる。
この事故や問題を小さなうちに見つけ、丹念に潰していくことで大事故を防ぐのである。
「大きな事故1件の影には、小さな事故300件が隠れている」とする有名な「ハインリッヒの法則」がそのことを明確に言い表している。
安全管理の鉄則として、どの現場にも浸透しているはずの原理である。
だから、原発の再稼働にあたっても、小さな問題が発生することは当然である。
再稼働のスタートアップに3週間~4週間もの時間がかかるのは、この小さな問題の発生を潰しながら進むためである。
これが安全確保の鉄則だからである。
そう簡単に停止したり動かしたり出来ない理由もここにある。
原発のような巨大プラントにおいては、稼働には慎重に時間をかけ、稼働したならば、出力の上下をさせず、一定出力のまま安定した運転を続けるべきなのである。
それが安全運転である。
マスコミの姿勢にも問題があると思う。
大飯原発の再稼働においても、小さな問題が発生するたびにマスコミが大きく取り上げていた。
上述のことを理解していれば、いたずらに騒ぐべきではないことは分かっていたはずである。
それでも報道の姿勢が改まらなかったのは、あえて住民の不安をあおり、ニュース性を大きくする狙いがあったからではと勘ぐってしまう。
このようなことを書くと「原発賛成派の言い訳」のように言われるが、テクノロジーの原則を理解して欲しいがためである。
原発の賛否とは関係なく・・である。
【二つの事故調査委員会の報告】
政府と国会の二つの事故調査委員会の報告が出そろった。
しかし、何人の国民がこの報告書を読んだであろうか。
政府は、この報告書の内容を国民に知らしめる努力を少しでも行ったのであろうか。
残念ながら、全くのゼロ状態が現実である。
それで、及ばずながら、本コーナーで超簡単な解説を試みることにした。
まず、国会の事故調査委員会(黒川清委員長)の報告書であるが、最初から以下のような予防線を敷いていた。
「ヒアリングは、原則として、非公開かつ少人数で行う」「当委員会の設置は、事故責任を追及することを目的とするものではない。したがって、当委員会は、ヒアリングで得た資料(供述内容のこと)を、事故責任を追及する目的では使用しない」
要するに、最初から「逃げ腰だった」と言わざるを得ない。
案の定、最終結論は「人災でした」で終わっている。
だが、これだけの損害を出した事故である。
人災ならば、誰がその時何をして、どんな間違いを犯し、どんな責任を負うべきであるかが問われるべきであろう。
しかし、「事故責任を追及する目的では使用しない」と最初に宣言してあるのだから、「それを言う義務は無い」と言う事なのであろう。
黒川博士は世界的に名の通った素晴らしい方で、尊敬申し上げているが、残念ながら、本報告書は解説する意味も感じない。
では、政府の事故調査委員会(畑村洋太郎委員長)の報告書のほうはどうであろうか。
畑村博士も素晴らしい方で、博士の「失敗学」には、私も多いに感銘を受けた一人である。
本報告書の結論は、「原発事故の最大の問題は、専門家の想像力の欠如」となっている。
国会事故調の「人災」よりは踏み込んでいるが、その中身について、朝日新聞では以下のように解説している。
「原発を推進してきた専門家、政府、電力会社のすべてに共通するのは、原子力技術への自信過剰です。
それが『安全神話』を浸透させ、万が一の事故に備える発想の芽をつんでしまいました。
自分自身や家族が原発事故によって自宅も仕事も田畑も捨て、いつ戻れないかもしれない避難生活を強いられてらどうなるだろうか。
そういう被害者の視点から発想して原発システムと地域防災計画を厳しくチェックし、事故対策を立てれば、違った展開になっていただろうと思うのです。」
たぶんに情緒的な文章になるのは朝日新聞の特徴なので仕方ありませんが、本報告書の概要を端的に表わしていると思います。
両報告書を合わせて、以下に簡単に図式化してみました。
2つの調査委員会の報告書を読むと、「最も深い原因」を、国会事故調は「地震」に、政府事故調は「津波」に置いているようです。
そして、その対処において重大な人災(つまり人的ミス)を重ねたが、それは、原子力関係者たちの自信過剰から生まれた『安全神話』が引き起こしたと結論づけている。
【柳田邦夫氏の指摘】
2011年12月26日に、政府事故調査委員会(畑村洋太郎委員長)は中間報告を野田首相に提出していた。
そのあとに開かれた記者会見の感想を共同通信の記者が述べていたが、この記事に面白いことが書かれている。
事故調査委員会の委員の一人である柳田邦男氏が記者会見の最後で述べた言葉である。
「今日皆さんの質問を聞いて、クエスチョンを感じたことがあります。
原発が機能停止した最大の原因は、非常用ディーゼル発電機が浸水して全電源が喪失したといわれるが、我々の議論は違う。
ディーゼル発電機が動いても、電気を配る中枢神経である配電盤が地下にあり、それが冠水したため、いくら予備電源をもってきても電源は回復しないわけです」
柳田氏は、電源が喪失しても、配電盤さえ冠水しない位置に設置してあれば、予備電源をつないで対処できたかもしれないと指摘していたのである。
柳田氏は、大胆な発言をされることで有名な方で、Netなどでは、しばしばバッシングの対象とされている。
しかし、この記者会見での発言は重要なポイントを突いている。
絵にしてみよう。
【柳田邦夫氏の指摘の検証】
柳田氏は、配電盤さえ冠水しないで無事であったなら、何らかの予備電源を繋いで冷却の継続が出来たと言っているのだが、これは正しいのであろうか。
事故当時の記事や情報を丹念に調べていくうち、幾つかのことが判明した。
まず、地震では原発内の重要機器に損傷はなかった(「あった」と主張する人もいるが、根拠がなく推測の話ばかりである)。
ゆえに、原子炉は無事に非常停止した。
これは原子炉が暴走したチェルノブイリ事故との大きな違いである。
だが、外部(東北電力)から電力の供給を受ける電力線の鉄塔が一部倒壊し、この予備ラインは使えなくなっていた。
次に、津波の来襲を受けるまでは、緊急炉心冷却装置は動いていた。
原子炉停止で自前の電源は失われたが、非常用電源は動いていたのである。
それが津波を被って停止してしまった。
それでも、緊急炉心冷却装置は動いていた。
8時間は持つ蓄電池電源が生きていたからである。
さらに、2号機、3号機には別系統の炉心冷却装置がありそれも稼働していた。
つまり、「何らかの予備電源を繋いで冷却の継続」は出来ていたのである。
この間、原発側では恒常的な電源確保に向けて、必死の努力をしていた。
鉄塔が倒壊した電力線の代わりに、地上にケーブルを這わせて外部電源を持ってくる、あるいは、発電機を搭載した電力車を派遣するなどである。
しかし、電力車が渋滞に巻き込まれて来られない、あるいは、ケーブルの接続口が合わないなどの信じられない事態が続出し、緊急電源の時間切れが迫ってきた。
残された手段は、原子炉への海水注水だけになった。
ここから先は、読者のみなさんは先刻承知のことである。
当時の菅直人首相、斑目原子力安全・保安院委員長、そして東電首脳との不毛な論議の果てに、ついに電源は完全に絶たれ、炉心溶融へと進んでしまった。
柳田氏の指摘は、その通りだが、上述のような掘り下げが欲しかったと思う。
【マスコミの意識のズレ】
しかし、この記者会見に列席した多くの記者は、上述のような質問をしない。
「事故の犯人捜し」や「原発再稼働に向けての安全対策の確立」のような質問しかしない。
報道側の意識と、調査委メンバーが究明しようとしている内容とのギャップだけが際立った。
調査委は、事故原因についての証言やデータを収集し、分析し、議論を重ねてその時点で判明したことを報告にまとめたのだが、記者たちは、責任の所在や再稼働についてどう考えるのかという、きわめて政治・行政的な面にしか関心を向けなかった。
この意識のズレばかりが目立った記者会見であった。
【私の提言】
この種の事故の原因調査は、原発推進とか脱原発とか、どちらかの結論を誘導する目的で行うものではない。
純粋に事故の原因を究明できれば、今後に役立つ情報、教訓が得られるが、何らかの意図を持って行えば、バイアスのかかった危険な結論になる。
国会の事故調査委員会に比べれば、政府事故調査委員会は、真面目に事故原因の究明に取り組んだと言えるのではないか。
調査、分析が不十分な部分や、委員どうしで審議を尽くしていない課題は割愛し、ひとまず予定されたスケジュール段階までの報告書を作成した。
物足らなさは残るが、事故調のこの姿勢は評価してよいと思う。
だが、これで終わりではないはずである。
まだまだ不明なことだらけである。
10年以上かけても、事故を起こした原子炉圧力容器の蓋を開け内部の解明を行うところまでは、調査を継続し、国民に公表し続けて欲しい。
脱原発か推進かの結論は、その時で良いと思う。
マスコミは早急に結論を出すべしと煽(あお)るが、それに乗ってはいけない。
前号で書いたが、1980年に国民投票で原発全廃を決定したスウェーデンは、29年後の2009年に方針を修正し、原発継続に切り替えた。
国民の継続支持率は81%であった。