第22回:もんじゅ特集 その3

2011.07.03



今回は、高速増殖炉「もんじゅ」の続きじゃ。

「もんじゅ」は運転再開できるのか?

また、そもそも再開すべきなのか?

福島の事故につながる要素を含めて解説してもらった。

それでは・・

最初に福島第一原発の最近のトピックスについて解説する。


【東電の発表】

事故の初動対応について東電から発表があった(3ヶ月も経って、やっとだが)。
内容は、本コーナーの第10回、質問28への回答とあまり変わりはなかった。
本コーナーをご覧の方はいささか拍子抜けされたことと思う。
では、東電はこの発表で何を言いたかったのであろうか。

「本社も現場も、その時その時で最適なことをしてきた。
しかし、予想を超える事態の連続で、水素爆発も放射性物質の漏洩も防げなかった」
この2行に尽きると思う。
「それは自己弁護!」と非難されるだろうが、事実はこの通りなのであろう。
彼らの危機対応マニュアルの範囲を超える事態が相次ぎ、打つ手、打つ手が、ことごとく後手に回ってしまったということである。
そう読み取れば良いだけの報告書である。




【循環冷却は成功するか?】

東電が事故収束の切り札としている循環冷却だが、一進一退を続けている。
少し運転しては水漏れを起こし、あるいは放射線量が高くなって中断を繰り返している。
当然、マスコミは「ダメな東電」の報道に終始し、国民は「なにやってんだ!」と東電に対する不信といら立ちを募らせる。
焦った官邸からは東電に怒声が浴びせかけられていることと思う。

だが、冷静になって事態を見ていれば、今のところは最善の方法といえる。
試行、中断、また試行を繰り返し、収束に向けてにじり寄っていくしかないのである。
東電には、「諦めずに頑張ってくれ!」と言いたい。
7月3日現在、なんとか本格稼働にこぎ着けたとの報道があった。
しかし、やがて冷温停止にこぎ着けても、それは「終わりの第一歩」に過ぎず、それから本当の収束まで長い困難な道がなおも続くのである。

さて、本題の「もんじゅ」の第3回の解説を行おう。
もし、第1回、第2回をお読みでない方は、本特集の第19回、第20回をお読みいただいてから今回をお読みください。


【中継装置の引き上げに成功】

6月24日、「もんじゅ」を管理する日本原子力研究開発機構は、炉内に落下した燃料交換中継装置を燃料出入孔スリーブと一体で引き抜くことに成功した。
(右の写真:産経新聞のHPより転載)

落下事故から10ヶ月、20回以上の引き上げ失敗の末の成功で、関係者はホッとしていることであろう。
これで、いろいろな報道やブログで懸念されていた「中継装置の取り外しに失敗し、大事故になる可能性」は、一応回避できた。




【もんじゅの運転再開】

では、すぐに運転再開が出来るか、というと、そう簡単ではない。
福島の事故以来、「もんじゅ」を取り巻く環境は一気に悪化した。
原発の運転再開を訴えている海江田経産相ですら、「もんじゅは例外」と発言しているくらいである。

「もんじゅ」は活断層の真上に建設されているとか、プルサーマル燃料を燃やす原子炉であるとか、不利な材料も多い。
一部のブログで書かれている「事故が起こったら、半径300kmあるいは日本全体が汚染される」というような風評は荒唐無稽と言ってもよいが、通常の原発より厳しい立場に置かれていることは事実である。



左の写真は、2010年5月6日、ナトリウム漏えい事故による停止から14年5カ月ぶりに運転再開にこぎ着けた時の所員の喜びの瞬間である。
(時事通信社のHPより転載)

しかし、この日からわずか3ヶ月余りの8月26日に、この落下事故を起こし、原子炉は停止した。
機構は、「2011年度内に出力40%の試験運転開始」という当初目標は変えないと強気であるが、社会情勢がそれを許さないであろう。
原発への不信感が全国的に広がっている上、本格運転をしたことがないもんじゅには、より厳しい安全性が求められる。いや、その前に、高速増殖炉建設の前提であった「核燃料サイクル政策」そのものが先行き不透明な状態である。

たしかに、燃やした以上の燃料を生み出す「夢の原子炉」への期待はあるが、技術的な困難さは設計当初から指摘され続けてきた。
実際、運転に入ってすぐに事故が頻発し、5年で研究は頓挫。
その上、虚偽報告や現場撮影ビデオの隠蔽など、国民の不信を増幅させることが相次いだ。

1995年の事故をきっかけに、当時の組織は解体され、新組織で2005年から2年かけ、ナトリウム漏れ対策の改造工事を施工、安全性は大幅に強化されたということで、2010年の再開にこぎ着けた。
しかし、本格運転に入る前に落下事故を起こし、約1年間を棒に振った。
再び、前述の写真のような笑顔で運転再開を喜びあう日が来るのか、私にも分からない。



 
【情緒的判断vs論理的判断】

「もんじゅ」の運転再開に対し、国民感情は「NO」であろう。
今は、原発全体が、「放射能の恐ろしさ」による情緒的感情で判断され、無条件の「脱原発」世論が強くなっている。
私は、賛成にしろ、反対にしろ、この感情に支配された情緒的反応を危惧している。
今は「無条件の脱原発」だが、かって「無条件の推進」の時もあった。
戦争という行為すら、70年前は「無条件の開戦」だったが、それから4年後は「無条件の平和」と国民感情は180度反転した。
いずれも深い思考の結果ではなく、「怒り」「恐れ」といった感情による情緒的判断である。

それで、この「もんじゅ」に関して、感情で動く情緒的判断ではなく、論理的判断を行ってみようと思い立った。
日本原子力研究開発機構(略して”機構”)の発表や当時の新聞記事、ネットからの情報などを精査し、真実に近い形を追ってみた。
以下、少々お付き合いを。




【その時、もんじゅで何が起きたのか? 1995年12月8日】

時計の針を15年半前に戻し、1995年12月に「もんじゅ」で起こったことを検証してみよう。
その上で、論理的な判断を行い、「もんじゅ」の運転再開の是非を論じてみることにしたい。

この日、「もんじゅ」では運転開始前の点検のために、出力上昇の試験をしていた。
目標の熱出力43%を目指し、出力を徐々に上げていた。
時系列でこの時の様子を再現してみよう。


<12月8日>

19時47分
二次冷却系配管のナトリウムの温度を示す中央制御室の計器が「異常高温」を示した。
(右の図を参照)

通常480℃のところ、600℃の目盛りを振切っていた。

(※注意:液体ナトリウムの温度が600℃以上になったわけではない。この温度計は、電源が断たれると、オーバーレンジとなり、針を振り切るタイプのものだから、正しくは「計測不能」になったということである)

その後すぐに、火災報知器が2か所で鳴り、さらにナトリウム漏洩を知らせる警報が中央制御室に鳴り響いた。
運転員らは現場に急行し、目視で「もやっている程度の煙(運転員の証言)」を確認した。
この煙はナトリウム火災の特徴だった。
しかし、火災場所の特定が出来ないうちに、警報の範囲はどんどん広がり続けた。

20時00分
火災警報が14か所に広がった時点で、運転員は原子炉の停止を決断し、異常時運転手順書の「二次主冷却系のナトリウム漏洩」に従い、原子炉の出力を徐々に落とし始めた。
原子炉を急激に停止させる「緊急停止」は炉に負担をかける。
それゆえ、運転員は原子炉の保護を優先し、緩やかな出力降下を選択した。

時間不明
その後まもなく、非常に大きなベル音が連続して鳴り響いた。
この音が運転操作の妨げになるとして、運転員はベル音のスイッチを切った。
このため、別の火災報知器が、その後警報を発したことに気づくのが遅れた。

20時50分
現場にいた運転員が白煙の増加を確認。

21時20分
事故発生から1.5時間、事態は沈静化せず、火災発報箇所は、34か所にも及んだ。
この時点で、事態を重く見た運転員らは原子炉を緊急停止させた。

時間不明
原子炉を緊急停止させた後も火災報知器の発報は続き、最終的に66か所に及んだ。

時間不明
現場には白煙が充満し、高温により防護服を着用しても立ち入ることは困難。
被害状況が全く分からない状態が続いた。

22時40分
遠隔操作で、二次冷却系Cループ配管内のナトリウムの抜き取り操作を開始した。

23時13分
二次冷却系Cループ配管室、蒸気発生器室の換気空調系が相次いで停止。

<12月9日>
00時15分
二次冷却系Cループ配管内のナトリウムの抜き取りを完了。

2時00分
事故発生から6時間13分、ようやく事故現場に立ち入り、状況を確認。
鋼鉄製の床が浸食され、ナトリウムが周囲にスプレー状に散布されていた。
調査班は、この様子をビデオに撮影した。
これが、後で大問題になる「2時ビデオ」である。




【国際原子力事象評価尺度(INES)による評価】

いわゆるINS(International Nuclear Event Scale)評価を実施。
漏洩した金属ナトリウムは二次冷却系で、放射線漏れは無く、「レベル1」と判定された。
(下図を参照:Wikipediaより引用)


【事故ビデオの公開】

事故後、もんじゅのプレスセンターで記者会見が行われた。
この時、当時のもんじゅの管理者であった動燃(動力炉・核燃料開発事業団)は、事故当時撮影したと言って、1分少々のビデオを記者団に公開した。




【ビデオの編集が発覚】

しかし数日後、これが編集されたビデオであることが発覚。マスコミは全ビデオの公開を求めた。
指摘を受けた動燃は編集前のビデオを公開したが、これが全部でないことが、また発覚。
全ての映像を公開するとマスメディアや反原発団体から熾烈(しれつ)な糾弾を受けると判断した担当職員が、穏便に済むようにと配慮した結果だった。
だが、それが裏目に出た。
「情報隠蔽」を攻め立てられた動燃は、ついに、事故発生直後の現場のビデオがあると発表。そのビデオを公開した。



【情報公開の影響】

公開された映像では、多量のナトリウムが施設内に飛散した様子が生々しく映し出されていた。
そのインパクトの強い映像が、新聞やTVニュースなどで連日流されたことで、国民は大変な事故が起きたと認識した。
しかし、前述のINS評価でも分かる通り、原発事故のレベルとしては「レベル1」の軽微な事故であり、放射線漏れもなかった。
これに対し、流された報道の量はすさまじいもので、その内容においても、炉心溶融の可能性まで言及する明らかな行き過ぎもあった。
電力会社を擁護するわけではないが、報道のこうした姿勢が電力会社の隠ぺい体質を誘導している。このことをメディアも国民も、そろそろ自覚すべきであろう。




【そして、悲劇が】

編集前のビデオを公開することになった記者会見に出席した当時の動燃総務部の次長は、会見の翌日(1996年1月13日)自殺した。
親族は、この自殺の原因は、動燃が「虚偽の発表を強いたため」と動燃を相手取って訴訟を起こした。
この動燃総務部次長の死を境に、メディアにおける本事故の扱いは急激に小さくなった。


【事故原因の究明】

事故から1か月後の、1996年1月7日~8日に行われた漏洩箇所のX線撮影により、ナトリウム漏洩の原因が明らかになった。
それまで有力だった説は、ナトリウムの温度を測定する「熱電対温度計」が収められている「さや(ウェル)」と配管の接合部の破損であった。
(右の図参照)⇒


さや」は、ナトリウムが流れる配管の中に棒状に突出しており、直径3.2mmの温度計を保護する役割を果たしていた。この「さや」は丈夫に作られており、ナトリウムの流速程度の負荷で折損するとは考えにくかったため、破損箇所があるとするなら接合箇所だろうと考えられていた。

しかし、X線写真によれば問題の「さや」の先端は途中のくびれ部分から完全に折損しており、中の温度計は45°ほど折れ曲がった状態で管内にむき出しになっていた。
(右の図参照)⇒

日本原子力研究所が調べたところ、ナトリウムの継続的な流れにより「さや」に振動が発生。
徐々に機械的な強度が衰え、折損に至ったことがわかった。
この温度計は、東芝が受注し、石川島播磨重工業が製作したものであった。




【火災発報の同時多発の原因】

次に、火災報知器が火災場所以外の広範囲で発報した原因であるが、換気ダクトによって白煙が拡大されたことが理由と分かった。
直径600mmのナトリウム配管の下方に、直径900mmの換気ダクトがある。
事故当時、この換気ダクトのファンは作動したままになっていた。
このファンにより換気ダクトに白煙が吸い込まれ、遠方に拡散したのであった。
ナトリウムの抜き取り作業が進み、ナトリウムの液位が下がった事で、換気ファンは、ようやく自動停止した。

 
 
【ナトリウムが散布された原因】

現場では、管路周辺にスプレー状にナトリウムが散布されていたが、これも予測できぬ事態であった。高速増殖炉では、液体ナトリウムは加圧されていない。
ゆえに漏洩があっても、スプレー状に散布されるほど勢いよく噴出しないはずである。
しかも、問題の配管は全て保温材で覆われており、仮に管内が多少加圧されていたとしても、スプレー状に飛散されることはないはずである。
調査の結果、前述の換気ダクトのファンに付着したナトリウムが遠心力で周囲に飛散していたことがわかった。


【運転員の対応】

中央制御室には、8人ずつ計5班の職員が、2交替制で24時間勤務している。
各班を統括するのは45歳前後の当直長。
制御室には、操作盤のほか、各系統の状態を表示する電光パネルが壁一面に据え付けられ、色の変化と警報音で異常を知らせる仕組みになっている。

操作卓の正面中央が原子炉の制御棒のコントロールに関するパネル、左側がナトリウム系、右側が水蒸気やタービン系となっている。
事故発生直後、原子炉を痛めることを恐れた運転員らは、ゆるやかな出力降下による原子炉停止を試みたが、これは運転マニュアルに違反した対応だった。

運転マニュアルには、火災警報が発報した場合は、直ちに原子炉を「緊急停止」するように記載されていた。




【運転再開に向けて】

動燃(動力炉・核燃料開発事業団)は、温度計のさや管の強度が足らずにナトリウム漏えいを引き起こしたとして、ナトリウム配管系の強度を上げる改造工事を行った。
だが、これまでの経緯を見れば分かる通り、もっと根本のところで何かが狂っていた。
国は、ついに組織変更を決意する。
動燃は解体され、「日本原子力研究開発機構」が発足した。
その後の経緯を記録から追ってみる。




【停止後の経緯】

2005年2月6日
事故から9年余り経ったこの日、西川福井県知事は、それまで留保していたもんじゅの改造工事を了承した。
これにより「もんじゅ」の再稼動に道が開かれた形になった。
西川知事は「これをもって運転再開を了承するものではない」と発言したが、運転再開反対派からは批判の声があがった。

2005年9月27日
フランスが、日本に対し、もんじゅの共同利用を提案。
フランスは、原発コーナー第11回で書いたように、高速増殖炉の先進国であったが、技術上の困難を克服できないとして、稼働中の増殖炉を止め、撤退していた。
だが、復活の可能性を捨てていないことが明らかになった。

2009年4月22日
運転再開の作業中にも、ナトリウム漏れ検出器の取り付けミスなどのトラブルを多発。
日本原子力研究開発機構は、経産省の原子力安全・保安院小委員会に事故と改善の報告書を提出した。

2010年2月10日
原発に反対する市民団体や住民運動団体が、日本原子力研究開発機構に対し、「もんじゅの運転再開はするな」「万全な地震対策を」などと申し入れた。
同時に、関西電力や日本原子力発電に対しても耐震対策の確立などを申し入れた。

2010年3月
日本原子力研究開発機構から業務を請け負う地元企業数社が、河瀬敦賀市長や、西川福井県知事のパーティー券を5年間に渡り購入していたことが発覚。




【運転再開】

2010年3月
4回の再開延期を経た後、原子力安全・保安院と内閣府原子力安全委員会は、「もんじゅ」の安全性に「妥当」という判断を与えた。政権は半年前に民主党に移っていた。

4月28日
西川福井県知事が運転再開を了承。

5月6日
停止から実に14年5ヶ月ぶりに運転を再開。
冒頭に掲げた「所員の喜びの瞬間」の写真は、この時のものである。

5月8日
出力0.03%で核分裂反応が一定になる臨界に達した。
同日、今後の予定が発表された。2011年度中に出力を40%に上げ、その後3段階で出力を引き上げる性能試験を3年間行うとされていた。
発電は2011年5月ごろから開始し、2013年4月に本格運転に入るとなっていた。

5月10日
操作方法を熟知していない運転員による操作ミスで制御棒の挿入が中断するトラブルが発生。


このように、運転再開後も、操作ミスや性能試験中の誤警報や故障などのトラブルが頻繁に起こった。
その上、トラブルは大小問わず迅速に公表するように念を押されていたにも関わらず公表の遅れがあったりして、当初計画は遅れていった。
相次ぐ機器のトラブルや一部工程での計画遅れなどに対応するため、運転資格を持つ運転員の再教育や試験担当者の増員、「運転管理向上検討チーム」の設置などの処置が発表された。
しかし・・・



【燃料交換装置の落下事故】

8月26日
燃料交換用の中継装置の落下事故発生・・・となってしまったのである。




【再再開の見通し】

このような状況の「もんじゅ」に対しては、とりわけ悲観的な見通しを示す人が多い。
例えば、「Yahoo!知恵袋」では、もんじゅに関し、
「いずれ液体ナトリウムの循環配管に異常が見つかり、それでも修理できないで・・・・。
つまり、分解・取出しが成功しないと関西圏は時間未定のとんでもない時限爆弾を抱えることになるのです。もちろん分解・取り出し作業が失敗して、その場で過酷事故になる可能性もあります」
という答えが「ベストアンサー」に選ばれている。




【私の見解】

上記ベストアンサーの「・・もちろん分解・取り出し作業が失敗して、その場で過酷事故になる可能性もあります」は、とりあえず回避された。
機構側の努力は称賛したいが、この取り出しだけで10億円ぐらいの費用がかかったことを考えると、
素直には喜べない。

また、ベストアンサーの前段に書かれていた、「いずれ液体ナトリウムの循環配管に異常が見つかり・・」は、設計当初から懸念されていた技術上の難点であった。
しかし、ナトリウム配管系の設計技術者の声は無視され、建設は強行された(詳しくは、前々回の第20回をお読みください)。
怖いのは、技術者の懸念の声が無視された段階で、「ナトリウム漏えい事故は起きない」となってしまったことにある。
以下の写真がその証拠である。


【窒素消火装置】

上の写真は何か?
これは、ナトリウム漏れ事故などの時に、二次系配管室内へ消火用の窒素を送る装置である。
1995年のナトリウム漏れ事故の後、再発防止のため、179億円の費用を投じて改造工事が実施された。
この装置は、その改造の一環として設置された。
ナトリウムが漏れた場合に、配管室内に窒素ガスを注入して消火する装置である。

実は、1995年の事故以前には、この窒素注入装置はなかった。
つまり、「もんじゅ」の研究開発主体だった動力炉・核燃料開発事業団(動燃)は、二次系主配管室でナトリウムが漏れる事故は起きないと断定していたのである。

一方、放射性物質が存在する一次系の部屋は、原子炉を起動するとき、あらかじめ窒素ガスを入れて空気と置換している。
ナトリウムが漏れても火災が起きないようにするためである。
だが、ナトリウムの漏えいの危険は、一次系も二次系もない。
それが不思議なことに、二次系では「起きない」あるいは「起きてもよい」となってしまっていたのである。




【もんじゅは今後どうなるのか?】

機構は、なんとしても「もんじゅ」の運転を再開させようとしています。
一方、反対派は、「爆発したら300km範囲が全滅」と危機感をあおっています。
地元自治体は、「他の原発は動かしたいが、もんじゅは・・」が本音。
政府は・・沈黙しています。
私は論理的判断をするため、今回、克明に記録を追ってみました。
そこから見えてきたのは、多くのケアレス・ミスの重なりと情報の小出し体質です。
(ビデオ公開の件などは、先年の尖閣問題のときと全く同じ図式です)

これらの現象は、「原設計 → 実施設計 → 建設 → 運転」と、場面と人が変わるところで情報が正しく伝達されていないことを意味しています。
原子物理学の知識や設計技術、施設建設の詳細などの情報を、運転員がどれほど理解・会得しているでしょうか。
通常時はともかく、事故時の対応を検証してみると、はなはだ心もとないことが分かりました。
だが、機構側だけを非難しても仕方ないと思うのです。
「もんじゅ」に限らず、原発における事故は、「必ず起きる」のです。
この確率の法則からは、どんなものも逃れることは出来ないのです。
飛行機は落ちるし、自動車の事故は日常です。化学工場の爆発、電車の脱線事故、
およそ、この世に存在するもので「事故が絶対に起きない」ものは無いのです。
開業以来47年間、乗客の死亡事故ゼロの日本の新幹線は奇跡と言ってもよい快挙です。
関係者のたゆまぬ努力の結果です。
しかし、この先も「絶対に」ゼロが続く保証はありません。
「いつか起きる」のです。その時の惨事は考えたくもないですが。
でも、「新幹線を止めろ」とはならないでしょう。
「事故は必ず起きる」という大前提を「絶対起きない」としてしまったところに、原発の本当の危険があります。
「絶対に起きない」、だから「想定外のことは考える必要がない」となってしまったのです。
そこを考え直し、「事故は起きる」として原発の安全を考え、また是非を考えるべきなのです。


【原発半島】

「もんじゅ」は、若狭湾に突き出た福井県・敦賀半島の北端にあり、県庁所在地の福井市からは南南西に約41キロの所に位置している。

敦賀半島には、廃炉作業が進む原子力機構の新型転換炉「ふげん」や、日本原子力発電の敦賀原子力発電所、さらに2004年の3号機配管破断事故で11人が死傷した関西電力の美浜原子力発電所も立地。

「原発半島」の異名を持つ。

もう昔の話だが、この半島には何回も通った。その頃を思い出しては深く考えてしまう。
以下の写真は、今の「もんじゅ」の姿と、建設中の「もんじゅ」である。

原発の是非の判断基準は、原子力エネルギーをテクノロジーと人間の叡智(えいち)が抑え込めるか否かにかかっている。
誤解を恐れずに言えば、「我が子にナイフを与えるか、火を扱うことをさせるか」に似ている。
「今の人類は、原子力という火を扱えるか」の問題なのである。



核心の話になってきたのう。

次回からは、特別講師に、原子力の歴史と人体への影響を講義してもらおうと思うのじゃ。

そこから、脱原発なのか、原発推進なのかを考えてみようと思う。

みなも考えてくれ。